ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
レパード玉熊の戴冠から30年
今から30年前の今日90年7月29日に水戸市民体育館で行わ
れたWBAフライ級タイトルマッチで、1位のレパード玉熊が
王者の李烈雨を10Rに2度のダウンを奪ってストップ勝ちし伝
統のWBAフライ級タイトルを75年4月に花形進が失ってから
約15年4ヶ月ぶりにもたらした日である。
王者の李は前年3月にヘルマン・トーレスに勝ってWBC:J
フライ級タイトルを獲得すると初防衛に失敗したものの、3月
に試合巧者のヘスス・ロハスに判定勝ちしてタイトルを奪取し
ておりデビュー以来1度もダウンした事がないタフな連打型。
一方の玉熊は前年3月にWBCフライ級王者の金容江に挑戦し
たが僅差の判定負けでタイトル奪取に失敗しており、2度目の
挑戦になるので長身の玉熊が李の強烈な突進をどう捌くかが
カギとされていた。
試合が始まると1R目こそ李に押し込まれるが2Rからは接近
戦で細かい連打を浴びせて打ち勝つと3Rにはグラつかせるな
ど、互いにクロスレンジでのショート連打の撃ち合いになる
のだがラウンドを重ねるにつれ玉熊が打ち勝つシーンが目立
つようになってきた。
9Rのチャンスは攻めきれなかったものの10Rに消耗した李
を連打でダウンさせ、何とか立ち上がった所に連打をまとめ
ると2度目のダウンをしたところでレフェリーがストップした
のだった。
昭和の末期から平成の初めにかけて日本のボクシング界は
世界王者が不在だけでなく世界戦21連敗だったのが、5ヶ月
前の2月7日に大橋秀行がWBCストロー級王者になってから
ムードがよくなって来たもののストロー級は大橋には申し訳
ないが新設クラスだから次はメジャーなタイトルが欲しくなる。
そういう意味で今回挑戦するWBAフライ級は白井義男から始
まりファイティング原田、海老原博幸に大場政夫や花形進らが
君臨した日本伝統のタイトルで、実際に実況した芦沢清一アナ
も‘日本伝統のフライ級に再び光が差しました’と語っていた。
ちなみに会場が水戸と聞いて個人的に当時‘いけるかも’と考え
たのだった。
というのも茨城県での世界戦は過去2度行われており75年7月
にWBC:Jライト級王者の柴田国明が、81年5月にはWBCフライ
級王者の大熊正二が共にKO負けしてタイトルを失っているもの
の逆に考えればタイトル移動の地でもある。
日本人選手にとって鬼門になるか?それともタイトル移動の
地になるか?という感じの中で、見事に玉熊が勝った事からタ
イトル移動の地になったわけである。
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この試合は、東京から水戸まで出かけて観戦しました。
国際ジムで高橋会長から直接チケットを購入したその横で黙々とサンドバッグを叩いていた玉熊選手と、試合当日の冷房設備のない体育館の四隅に気休めの氷柱が置かれていたことが、鮮明に記憶に残っています。
あと、私は浜田1RKO試合の入場シーンから芦沢俊美アナのファンでもあり、この試合の後実況席まで行って握手してもらいました。
水戸まで行かれたのですか?意外に東京からでは遠いですよね。
でも行ったかいがありましたね、羨ましいです。
今見ても田舎の体育館といった風情で越本隆がタイトルを奪取した福岡市の九電記念体育館もこんな雰囲気でした。
また私の地元・田川市であったWBAフェザー級タイトルマッチも空調設備がなく、8月13日だった事からラウンド終了インターバルに平仲をロープの間に上半身を出させて下にたらいを置いて冷水を背中化からかけるシーンがありました。
芦沢俊美アナのコメントとして直前の場所で初優勝した旭富士の話をしたので‘?’でしたら、同じ青森出身という事を意識していたようですね。
芦沢アナは昭和末期から平成初めの民放名物ボクシングアナですから「浜田のパンチが世界を制しました」などの名セリフ印象深いですね。
地方会場ならではの情緒がありますね。最近は主要都市の大会場でしかやらなくなりましたが。
確か当時、旭富士、柔道の斉藤とともに、青森出身の寡黙なスポーツ選手が脚光を浴びていたように記憶しています。
あと、芦沢さんの名調子ですが、試合終了10秒前になると、「もうKOはありません!」とか言っちゃうところも含めて好きでした。
昭和の時代に具志堅は山梨学院でタイトルを奪取すると札幌や別府に名古屋・広島・川崎・北九州・大阪・高知・金沢に沖縄と日本武道館や蔵前国技館での4度の防衛戦を挟んで行ってましたね。
10年前に内山高志の防衛戦をさいたまスーパーアリーナで観戦した時に、一緒に感染した友人が「最近は東京では某一家の試合以外はスジ者の人達を見かけなくなったけど、地方ではこういった人達抜きでは興行難しそうですね’と言っていたのが印象的でした。
ああいった人達を勧進元とか地方有力者などと言ってましたし90年代はリングサイドの向こう正面で林家こん平師匠そっくりな人が、日本人選手がチャンスになると立ち上がって丸めたパンフレットを振り回して声援を送ってるのを度々目にしましたし玉熊が勝った時はリングに上がって手を上げさせてましたね。
芦沢氏の最後の世界戦実況は辰吉ーリチャードソン戦あたりでしょうか?
確かにあの頃は最終ラウンドはゴングに救われてましたから、残り10秒を切るとKOはなかったけどレフェリーストップがあるのは・・・と突っ込む人がいました。