ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
複数投手制定着を阻んでいたもの
以前サッカー元日本代表監督の岡田武史氏が00年代前半強い一方、
体力勝ちしている傾向が強かった国見のサッカーについて‘国見のス
タイルを否定したいなら、テクニカルなスタイルで国見に勝てばい
いだけの話。国見に勝ってスタイルを批判すればいいわけであって
勝てないからと言って批判するのは筋違い’と語っていた。
これ高校野球でいけば‘エース至上主義は将来を潰すので複数投手
制を’と言いながら、踏み切れないのは複数投手の継投で勝つよりも、
絶対的なエースが1人に任せた方が勝つ確率が高かっただけという事
になるだろう。
確かに複数投手制は交代した投手が全員調子がいいわけでなく、
相手にとって‘代えてくれてありがとう’的な情況にもなりえるし何
よりエースで負けたら諦めがつく的な思想があるので控え投手を起
用するより最後はエースに命運を託す適な要素が強かった。
エース依存スタイルだった昭和の時代にも複数投手制で優勝した
といえば74春に住谷ー東のリレーで11人の池田に勝った報徳学園が
個人的には初めてで、他は79~80の前橋工が元マリーンズの小川博
をはじめ左腕の番場に大型右腕の蓮場と3人を擁していたが3度出場
したものの79夏に2勝した3回戦進出が最高。
また82年の鹿児島商工は川俣・和田・弥勒と3人の投手を擁して
秋と春の九州大会を制していたものの甲子園では1勝づつに終わっ
ており、この頃は複数の投手を持て余している感もあり3人使いこ
なせたのは87年に野村弘樹・橋本清・岩崎充宏を擁し春夏連覇を果
たしたPL学園ぐらい。
平成に入っても92年準優勝の拓大紅陵は以前記したように富樫・
杉本・多田・紺野と4人のタイプの違う投手陣を擁していたが森尾
和貴が1人で投げ抜いた西日本短付に敗れている。
つまり90年代初めぐらいまでは複数投手の継投よりも大黒柱の
エースという不文律は鉄板で、智辯和歌山や大阪桐蔭に東海大相
模などが複数の投手を使い分けて勝つチームよりマスコミも孤軍
奮闘するエースのチームの方に好意的だった。
つまり複数投手制の定着を阻んできたのはエース心中論や斎藤
佑樹・佐藤世那・吉田輝星ら物量的に勝る相手に孤軍奮闘で立ち
向かうヒーローを作りたいというマスコミの願望に、先述したよ
うに複数投手制では勝ちづらいという理論が絡んでいるのではな
いかと思ったりする。
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昔は継投といえば勝ち目がなくなった敗戦処理リレーというイメージの方が大きく、むしろ勝ちに行くリレーというのはするケースが少なかったようです。
マスゴミがスポーツをオモチャにしているというのは私も同意します。