ウォーリー・与那嶺 要氏を偲ぶ

“ONの恩人”与那嶺さんを悼む「少年時代ウォーリーだけがサインをくれた」 (夕刊フジ) - goo ニュース

 今日のスポーツ紙に現役時代にジャイアンツで活躍し、ドラゴンズの監督と
してジャイアンツのV10を阻んだ与那嶺要氏が85歳で亡くなったという記事が
載っていた。
 
 与那嶺といえば私の世代では選手というよりドラゴンズの監督というイメージ
で、特に74年に9年連続日本一を続けていたジャイアンツの10連覇を阻んだ
事でインパクトが強いし、ちょうど私が野球を真剣に見始めた年だから余計に
記憶に残っているのだ。

 高木守道から始まり2番:谷木恭平、3番:井上、4番:マーチン、5番:谷沢
健一、6番:島谷金二、7番:広瀬、8番:木俣達彦という強力打線が印象的
だった。

 一方で投手陣は近藤貞夫に任せて左腕の松本が20勝し快速球を投げ込む
鈴木孝政に星野仙一が初のセーブ王になるなど分業制にしていたのを思い
出す。

 ジャイアンツ戦になると異常に闘志を燃やして戦っていたが、後から与那嶺
自身がジャイアンツのOBだったという話を祖父から聞いて驚いた記憶がある。
 そして いろいろ調べて見るとセーフティバントを初めてやったり何よりも相手
野手のグローブを蹴り上げてボールをこぼさせたりする殺人スライディングと
呼ばれた激しいプレーを日本に持ち込んだという。

 そのプレーは長嶋茂雄にも影響を与え‘打って守って走れる選手’という理想を
体現していたようだし、ファンに対する姿勢も王貞治が‘小学生の時に観戦に
行った後楽園球場で初めてサインをもらったのが嬉しかった’というぐらい分け
隔てなくファンを大事にするというお手本だったらしい。

 実際90年代にジャイアンツの宮崎キャンプを見に行った際に球場を訪れていた
与那嶺氏を見つけたので‘お体に気をつけて いつまでも頑張ってください’と声を
かけると嬉しそうに私の目を見て‘アリガトウ’と言って手を挙げてくれたのを
思い出すし、王の言った言葉に間違いはなかったと実感したものだった。

 ドラゴンズの監督を辞めた後もジャイアンツをはじめ何チームもコーチなどで
渡り歩いたのを見ると、氏の人柄と野球への情熱が窺える。

 すぐには無理だろうが氏の功績を称える意味でも今シーズン中に東京ドーム
のジャイアンツ-ドラゴンズ戦で‘与那嶺要メモリアルゲーム’あたりを行えない
だろうかと思ったりする。

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