草むしり作「わらじ猫」後3
大奥のお局さま③若様は風呂嫌い3
「やったー」
思いもかけない出来事に言葉を失ってしまったお局の後ろから、子どもの声が響いた。
「若君、お目覚めでしたか」
どうしたことだろう。いつもは寝起きが悪く、半時はグズグズと泣いている若君が、泣きもせずに立っている。よく見れば若君の足元にはさっきの猫が尻尾を立てて、体をこすりつけている。
「この猫はそなたの猫か」
薪が飛んで来たほうから一人のお端下(はした)が飛び出してきた。やっと事態が把握できたお局さまが尋ねたときには、お端下はすでに頭を地面に擦りつけていた。目の前に御わすのが、大奥総取締役の秋月の局さまと若君とだと分かったのだろう。
お端下はますます頭を深くさげて地面に敷かれた玉石の中に顔が埋まってしまうくらいになっていた。いくら猫を追い払うためだからといってもお局さまの目の前に薪を投げつけてしまったのだから、お叱りどころか無礼打ちにされても致し方の無いことだ。このままやり過ごすつもりなのだろうか、それともとっくに覚悟を決めているのだろうか。
ところがいつまでたってもお局様の「無礼者」の声がしなかった。お局様は寝起きでまだ頭がはっきりしていないのだろうか……。いやそうでなくいつも寝起きの悪い若君が、すんなり起きていることのほうに驚いていたのだ。
「この猫は、そのほうの猫か」
お局様は震えているお端下に声を掛けた。
「はい、わたしが拾った猫でございましたが、今は米蔵で鼠の番をしております」
お叱りを受けるものとばかり思っていたお端下は一瞬戸惑ったが、それでも気を取り直して答えた。
「米蔵の鼠の番と申すのか」
このところ城内で鼠が異常に繁殖しているとの報告は受けていた。特に米蔵の被害は甚大で、御用商人の鈴乃屋が選りすぐりの猫を放ったと聞いた。おかげで米蔵の鼠は一月もしないうちにいなくなってしまったが、今度は大奥のあちらこちらで鼠の糞を見かけるようになった。なんのことはない米蔵の鼠が大奥に逃げて来ただけのことだった。
鼠は夜中に天井を走りまわるだけではなく、昼間でも姿を現すようになった。御膳所の仲居は朝からキャーキャー悲鳴をあげ、御火番係は見回りの最中に鼠の尻尾を踏んでしまった。その拍子に驚いて手に持っていたろうそくを落としてしまい、もう少しで火事を出すところだった。
「このままでは大奥の威信にかかわると」お局様が直談判をして、つい先日お蔵方の猫を回してもらったばかりだった。むろん大奥にも猫はいないことは無いのだが。大奥の猫ときたら贅沢な物ばかりを食べさせているので、鼠などには見向きもしない。そればかりか鼠に鼻先をかじられる猫まで出る始末だった。
ところがお蔵方がしぶしぶ貸し出した猫が来てからと言うもの、嘘のように騒動が収まってしまった。
「今度お蔵方にお納めいたしました猫の中には、飼い主の奉公先に押し入った盗賊一味を退治した猫もおります」
鈴乃屋が自慢していたのを思い出した。そういえば飼い主の娘も鈴乃屋の口利きで大奥に上がったと聞いた。体が大きく、たいそう力が強いと言っていた。このお端下のことであろうか。
「鈴乃屋が申しておった盗賊を退治した猫とは、この猫のことか。それにしてはずいぶんと小さいのう」
猫はお局様の足元によってくると、お局様の草履の鼻緒に、耳の付け根を擦りつけている。なんとも愛らしい猫の仕草を見て、若君が大喜びしている。こんな若君の顔を見るのは久しぶりだった。
「聞けば、盗賊に中には上州の赤鬼と申すたいそう凶悪なやからもおったいうが、その赤鬼もこの猫が退治したのか」
「いえあれはこぼれた油で滑って、自分が手に握っていた匕首で腹を突いただけでございます」
「なに、この猫が鬼退治をしたのか」
若君が目を丸くして娘に聞き返した。
若君にいたっては落ち着きが無いといってしまえばそれまでなのだが、人の話をまともに聞いたことが無い。常にバタバタとそこいら中を走りまわり、おとなしくしているのは寝ているときだけだった。
「のう秋月、若は大丈夫なのか」
時として上様はお局様に尋ねることがあった。
「何をおっしゃいます上様。若君は話に興味が無いだけでございます。女中たち頭のてっぺんから出ているようなキンキン声は私(わたくし)とて頭が痛くなってしまいます」
実際若い部屋子たちの声は、お局様にはよく聞き取れないところがあった。
「若君、湯殿の準備が整いました」
いつも落ち着きの無い若君であったが、ただ一つ紙を丸めたり開いたりするのはどうした訳か好きだった。ガサガサと音を立て何度も紙を開いては丸め、丸めては開いて最後はビリビリと破くのだった。今も紙を破いている最中だった。
「嫌じゃ、湯殿などいかぬ」
君は真っ直ぐにお局様を見据えるとそう答え、また紙を破り始めた。
「ほらごらんなさいませ、ちゃんとお答えあそばしたではございませんか」
お局さまは自信を持って上さまに答えた。
「まあ、若君が」
そんな若君がお端下の話を聞いていたとは。じゃれ付いている猫がよほどお気に召したのだろうか、それとも娘の声が聞きやすいのだろうか。少し低めの娘の声は、この頃特に耳鳴りのひどくなったお局さまの耳に心地の良い響きだった。ただよっぽど緊張しているのであろう、前についた両手がブルブルと震えている。
それにしてもずいぶんと大きな手をしているものだ。部屋子たちの小さなか細い手を見つけたお局さまには、目の前の娘の手は特別大きく見えた。鈴乃屋はずいぶんと力の強い娘だといっておったが、なるほど力の強そうな手をしている。
お端下は大奥の中では一番身分が低い。水汲みや風呂たき、何につけても力を使う仕事だ。しかし目の前の娘ならば、どんな力仕事も楽々とこなしてしまいそうだ。
「薪を持っていたが、そなた何をしておったのじゃ」
「はい、湯殿の湯を沸かしておりました」
「なに、湯殿じゃと」
お局様に妙案が浮かんだようだ。
その日若君はたいそう機嫌がよく、湯から上るとすぐにお局様の部屋を訪れた。
「お婆(ばば)、むかし奥羽の国にたいそう不精な爺と婆がいたそうじゃ」
湯上りの肌はサラサラとして心地よく、まだうっすらと湿っている洗い髪からは、幼子の乳臭い甘い香りが漂ってきた。
「爺と婆が湯につかると垢がたいそう出て来たそうじゃ。そこでその垢を集めて人形をこしらえて、垢太郎っていう名前をつけたそうじゃ」
湯殿のお端下は、熱いお湯に肩まで浸かれなどと言う代わりに、垢で出来た垢太郎の話をしたそうだ。垢太郎がたいそう力持ちに成長して、魔物を退治する話だった。大奥という女の園で暮らしてはいるが、若君もやはり男子である。とりわけ腕白盛の年頃の子どもには、この手の悪者退治の話は血が踊るのだろう。
その日から若君は入浴の時間を心待ちにするようになった。そして湯上りには必ずお局様の部屋を訪ねて、その日聞いた話をお局さまに話して聞かせるのが日課となった。
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