2008年7月、私は大量の保険証書の整理業務についた。整理と言っても、紙ベースの証書をPDFにする際の整理である。これは、その状態を崩す事無く、整理された順番になるようにナンバリングを行うことであった。
そこに集められた人間の数は約140名ほど。3社ほど集められていたが、男女比、いわゆるジェンダーバランスは私が所属した派遣会社が一番均整の取れた形になっていた。そしてまた、比較的穏やかな人が多かったのも特徴的であった。あるとき、他の派遣会社の仕事をしていて、事務作業を行いながら、話が「派遣会社評」に及んだ時があった。「A社は給料が安い」と言った。だがまあ、H社の人間が集められていた、その場の殺伐とした雰囲気に比べれば、A社の方がずっと良かったし、そう言った彼女は、派遣最大手のS社でもゆうゆうと立ち会える人だったから、どれだけ職場環境や人間環境が悪くても、金だけもらえたら、それで良いという人なのであろう。
A社を通じて得た、この仕事で知り合ったメンバーとは、今でもメールのやりとりをしている。
8月で契約は終了だった。実を言えば、9月以降も継続して仕事はあったのだが、私はこれを断った。
9月に入り、私は母校の事務職員の再アプローチをかけたが、これにたいして、何の返事もなかった。さすがに、このとき仕事もそこそこで、人間関係にも恵まれた書類整理の仕事を早々と退職したことを後悔したが、やはり次を探さなければならない。
派遣最大手のS社へ登録した。人に聞くS社の評判は良くない。しかし、仕事だけは豊富であった。そしてまたなぜかすぐに決まるという評判であった。何日も家にいて、パソコンを眺めながら仕事を探していると、しんどくなってくる。9月下旬に入り、R社から電話がかかって来た。私の中ではR社は登録したものの、仕事エントリーしても全く反応のない「使えない会社」であった。そのとき紹介されたのは「印刷会社のDTP部門」と「制作会社のDTP部門」、「制作会社のマニュアル制作部門」
「印刷会社のDTP部門」に関しては、結果が目に見えていた。給料の良さを見れば、かなりの熟練者を求めている事は明白である。「制作会社のDTP部門」に関しては、かなりしんどい仕事のようだ、さんざんその仕事をした後で、社員採用になる「紹介予定派遣」。しかし、驚いたのは、どちらも少し前まで新聞やネットの求人広告で派手に出していた会社である。大方予想はついた。いま、本当に即戦力的な技術を持つ人間が少なくなっているということだ。普通の求人では望む人間が取れないのである。初心者を退け、人を投げ合って来たツケを社会が払う段階に来ているという事でもある。もっともその事に対して、ほとんどの会社は自覚的ですらない。ただ、投げられた人間にしてみれば、「もう二度とこんな世界に来るか」という気分になる。すべての人間が「何くそ!」の気持ちを持てるわけではない。
「制作会社のマニュアル制作部門」に関しては正直困った。あの外国語マニュアルの制作である。本当のところを言えば、この仕事は二度とやりたくない。何も自分にもたらさなかったからである。しかし、このまま行けば食うに困ることになる。
松下電機産業。の子会社。
雨が降りしきる中、私は派遣会社の担当者に面接に連れて行かれた。そこで実に45分ほど喋って採用が決まった。何のことはない。家電製品マニュアルを外国語で作っていましたと言えば、過去の経験が買われて採用されるものだ。やる気など・・・どうとでもなる。私でもそのくらいのペテンは行える。前職と違った点は、よりメーカーに近い位置で仕事をするということ。そしてまたずっと派遣のままで仕事をして行くという事。社員の登用などはないのだ。「5年のサイクルで見て欲しい」と言われた。すなわち、5年後にこの仕事があるかどうかわからないということ。
まあ、不況が進み、家電業界に「パーフェクトストーム」が襲いかかった今となっては、今年仕事があるかどうかもわからない状況になったのだが。「大丈夫ですよ、3年もたったらマニュアルのチェックどころか、ライティングも出来るようになっていますから、何処へいってもその経験は買われますよ」と言ったのは派遣会社の担当者であった。
たしかにそうだ。前職はクライアントからもらった「完成原稿」を他の言語へコンバートし、整えるというだけの作業であった。何かを作り上げているという手応えはなく、「コンバート」が主体だから、多くの金も取れない。その割に作業量は多く、
気苦労だけがつきまとう仕事・・・・。だから、入っては辞めて行く、多くの人間を見送るだけであった。
10月1日に入って暇が続いた後で、行った仕事は、繁体中国語のチェック作業であった。しかし、この仕事をもらうのもすごく時間がかかった。ちょうど会社が休閑期に入っていたからである。少しパニックが起こって来た。
前職のことである。大阪のキタにあった外国語マニュアル制作会社に入社したとき、私はDTPのオペレータとしての雇用であった。しかし、入って一週間でその仕事を外された。必死でやったが、どうやら「熟練の技術」からみて、相応しくなかったらしい。そしてしばらく、会社に出て行って、一日何もしない日々が続いた。会社にしてみれば、そのうち根をあげて自分から辞めるというのを待っていたのだろう。だが、私は図々しくも居残った。だが、周りが忙しく働くのを見ながら、居続けるのはすごく精神的にまいった。地下鉄の梅田の駅のベンチに朝から座って、「今日も一日何もする事はないのだな」と考えながら、始業時刻までの時間を過ごしたこともあった。卑屈にも社内で頭を下げまくった私は、どうにか編集と校正の仕事を得た。しかし、その後を見ていると、DTPで使えなくなった人間が編集と校正に回されるパターンは実に多かったし、そこで反論した人間は、容赦なく「切られて」いった。私の場合は社内で「営業」したのが幸いした。この「営業」すらせず、居残った人間もまた切られていった。
この極端に仕事が少なく、回ってこない状況にさらされた私は、あの梅田の駅でベンチに座り、朝からため息をついていたあの頃を思い出したのである。
それでも社内では何人かの人が良くしてくれた。昼休みには、社内食堂へ行く。メニューには若干偏りがあって、味は本当に良くなかった。夏の書類整理で行った会社の社食は本当に気合いが入っていておいしかった。
門真の駅からコンビニもない不況の街を10分ほど歩いて、工場のゲートで認証を取り、工場の敷地内にある建物で午前中仕事して、お昼12時に部屋の電気が消されて、社食へ仲間と行って、食べて、45分しかない昼休みを過ごす。工場内にあるATMはいつも人が並んでいて、平日に金を下ろすのをあきらめて、郵便局に行く時間もとれず、取れたとしてもあのゲートで認証を取らなきゃならず、12時45分には集まって、ミーティングを行い、夕方17時には「かつて」松下幸之助をたたえたとおぼしき曲がスピーカーから流れても、仕事を続行し、19時くらいに仕事が引けて、家路を急ぐ。
会社とは工場であり、工場とはお城であり、その中に入ったら、一日何所へも出られない。それ故に、工場内には何でも完備されていて、ある意味で会社の「温情主義」とも言われる。その不自由さがこれから何ヶ月、何年と続くのかと思うとたまらなく不愉快であった。
様々な派遣会社から人が来ていたが、ここ門真の隣の守口にあった三洋から来た人がいた。今、三洋では技術系でも人減らしが進んでいて、三洋の派遣は、みんなこっちへ来ているとのこと。私はそこで将来像を描いた。そのうちこっちも景気が悪くなって、堺に出来るシャープの液晶工場へ移動するのか・・・。
しかし、今となっては、シャープの堺の工場も出来るのかどうかが怪しい。
一週間ほどで、私は仕事を辞した。