このブログで間借りしているgooブログが、「トラックバック練習版」という企画を毎週行っていて、題目を決めて、ブログを書き、似たような内容で、相互にトラックバックをはる事で体験してもらうという企画を行っている。いわば、異業種懇親会みたいなものだが、今回はその企画にのっかって投稿する。
でも・・・「将来、何になりたいですか」と聞かれて困る子どもではあったはずだ。
以前、幼稚園の頃になりたかった職業が、電車の運転手という事は書いた。尼崎の事故以来、あれほどハードな仕事であったことが判明したが。世間的に、土日に休めないというのは、かなり精神的に苦痛な事であり、子供服メーカーのミキハウスの退職理由はそれが一番多くを占めているとか。だから、会社も入社時の選考でミスマッチを減らす事を中心に進めているとか言うが、それでもこのご時世、チャンスが巡ってくればとりあえず入社して、様子を見るという思考の方がなんぼかましだ。本当に適性なんて考えだすと、仕事が見つからない事の方が多い。入って仕事が合わなかったなんて、普通の事だ。そんな結果があらかじめわかることの方が、不思議なくらいだ。ニートの増加は普通の事だろう。
幼稚園の頃の「志望」がその後どのくらい続いたのかはよくわからない。少なくも小学校に入った頃は、志望順位を下げていたと思う。小学校4年くらいだと思うが、父親の仕事を追いかけるような気持ちで、土木工学の技術者を挙げていたと思う。小学校3年位から、測量技術の基本を教えられていたからだ。この父親の日曜講座は、そもそも測量系の資格を早いうちから取らせると言う目論見もあったようだが、父親の気まぐれな性格で早い時期に、取りやめになった。
土木技術者の希望は、父の同僚の子ども達も挙げていた志望であったそうだ。その後、私を含めたほとんどの第2世代は、別の職業に就いたが、その中で、一人だけ土木関係の工学部へ進学し、その仕事に就いた。しかし・・・今日、父親たちのいる世界は、公共工事の減少や、世間の風当たりの強い時期にある事から、仕事を行っていくことが非常に難しく、新しく入った彼の会社もまた、倒産した。今現在、彼は別の土木関係の会社で働いている。
中学の頃は、国語の先生になりたかった。国語の教師自身の人柄が魅力的だったからだ。また民間企業に入るとしても、中小企業よりも大企業の方が良く、終身雇用が保障されていた。社会科の授業でそう発言した覚えがある。このころは結構勉強もしていたし、本も読んでいたが、中学校を卒業する頃から、高校にかけて、将来の夢がなくなった。そもそも、理系の才能が無かった。理系の才能があれば、世間的にそれなりに収入があり、それほどハードではない仕事があったと思うのだが、文系の才能の方が遥かにあった。この時点で、土木関係の仕事の選択肢は、現場で穴を掘るような仕事しか無かったし、国語の先生もまた、大学に入れるかどうかわからないような高校にはいったものだから、消えていった。それ以前に、入った高校を通して見た先生という職業が、あまり魅力的に写らなかったのが本音だ。
浪人し予備校に通い、長い時間をかけて大学に入ったが、このときに教えられた学問の方法論が結構気に入って、大学から大学院を通過して、大学の教員を目指すことを考えた。実際には、ほぼこのルートを完全に進む事が出来た。世間から隔離された大学の空間はある意味、祝祭空間であったと思う。ものすごく居心地が良かった。
しかし、ある一定の所まで行くと、そこからゴールがやたら遠い事に気付いた。その時間はとても納得のいく長さではなかったし、待ってて保証されるものでもないし、努力してどうにかなる類いのものでもない。これがすごく気にくわなかった。それに予備校のときの先生の中には、本当に大学の教員職にはなったが、あまりにバカバカしくて、退職したという人もいたくらいだ。
大学を去り、野に下った。本当の意味での現実が押し寄せてきた。
その事がわかっただけでも、あの空間を離れた意味がある。
今の仕事は、小学生のころは勿論無かったし、大学時代でもしっかりと認知されていたわけではなかった。
定着した人気と認知がされた職業でもないのだが、意外に居心地がいい。
そんな人生を歩みながら、明日、私の誕生日が訪れる
でも・・・「将来、何になりたいですか」と聞かれて困る子どもではあったはずだ。
以前、幼稚園の頃になりたかった職業が、電車の運転手という事は書いた。尼崎の事故以来、あれほどハードな仕事であったことが判明したが。世間的に、土日に休めないというのは、かなり精神的に苦痛な事であり、子供服メーカーのミキハウスの退職理由はそれが一番多くを占めているとか。だから、会社も入社時の選考でミスマッチを減らす事を中心に進めているとか言うが、それでもこのご時世、チャンスが巡ってくればとりあえず入社して、様子を見るという思考の方がなんぼかましだ。本当に適性なんて考えだすと、仕事が見つからない事の方が多い。入って仕事が合わなかったなんて、普通の事だ。そんな結果があらかじめわかることの方が、不思議なくらいだ。ニートの増加は普通の事だろう。
幼稚園の頃の「志望」がその後どのくらい続いたのかはよくわからない。少なくも小学校に入った頃は、志望順位を下げていたと思う。小学校4年くらいだと思うが、父親の仕事を追いかけるような気持ちで、土木工学の技術者を挙げていたと思う。小学校3年位から、測量技術の基本を教えられていたからだ。この父親の日曜講座は、そもそも測量系の資格を早いうちから取らせると言う目論見もあったようだが、父親の気まぐれな性格で早い時期に、取りやめになった。
土木技術者の希望は、父の同僚の子ども達も挙げていた志望であったそうだ。その後、私を含めたほとんどの第2世代は、別の職業に就いたが、その中で、一人だけ土木関係の工学部へ進学し、その仕事に就いた。しかし・・・今日、父親たちのいる世界は、公共工事の減少や、世間の風当たりの強い時期にある事から、仕事を行っていくことが非常に難しく、新しく入った彼の会社もまた、倒産した。今現在、彼は別の土木関係の会社で働いている。
中学の頃は、国語の先生になりたかった。国語の教師自身の人柄が魅力的だったからだ。また民間企業に入るとしても、中小企業よりも大企業の方が良く、終身雇用が保障されていた。社会科の授業でそう発言した覚えがある。このころは結構勉強もしていたし、本も読んでいたが、中学校を卒業する頃から、高校にかけて、将来の夢がなくなった。そもそも、理系の才能が無かった。理系の才能があれば、世間的にそれなりに収入があり、それほどハードではない仕事があったと思うのだが、文系の才能の方が遥かにあった。この時点で、土木関係の仕事の選択肢は、現場で穴を掘るような仕事しか無かったし、国語の先生もまた、大学に入れるかどうかわからないような高校にはいったものだから、消えていった。それ以前に、入った高校を通して見た先生という職業が、あまり魅力的に写らなかったのが本音だ。
浪人し予備校に通い、長い時間をかけて大学に入ったが、このときに教えられた学問の方法論が結構気に入って、大学から大学院を通過して、大学の教員を目指すことを考えた。実際には、ほぼこのルートを完全に進む事が出来た。世間から隔離された大学の空間はある意味、祝祭空間であったと思う。ものすごく居心地が良かった。
しかし、ある一定の所まで行くと、そこからゴールがやたら遠い事に気付いた。その時間はとても納得のいく長さではなかったし、待ってて保証されるものでもないし、努力してどうにかなる類いのものでもない。これがすごく気にくわなかった。それに予備校のときの先生の中には、本当に大学の教員職にはなったが、あまりにバカバカしくて、退職したという人もいたくらいだ。
大学を去り、野に下った。本当の意味での現実が押し寄せてきた。
その事がわかっただけでも、あの空間を離れた意味がある。
今の仕事は、小学生のころは勿論無かったし、大学時代でもしっかりと認知されていたわけではなかった。
定着した人気と認知がされた職業でもないのだが、意外に居心地がいい。
そんな人生を歩みながら、明日、私の誕生日が訪れる
日記を書いているだけのページですが、お時間のあるときにまた来てくださいね。
私もこちらに遊びに来させていただきますー★
&Happy birthday to you!