循環型社会って何!

国の廃棄物政策やごみ処理新技術の危うさを考えるブログ-津川敬

環境プラントメーカーのいま(1)

2009年05月06日 | 廃棄物政策
 1997年度から02年度までの5年間をダイオキシン特需期という。環境プラントメーカーは半世紀に一度というビジネスチャンスに狂喜し、その間投じられた焼却炉や溶融炉の建設総事業費は累積2兆1,800億円に及んだ。
 2000年度における大型焼却施設の受注量は(1日処理量当り換算)1万3,600トン。通常期なら3,000トンから4,000トンどまりだから、まさに特需であった。ではその後、この業界は軒並み利潤をあげ、企業収益に多大の貢献をしたのだろうか。逆である。
「この道30年の実績」をうたう新日鉄を除き、特需が終った2002年度以降、軒並み赤字に転落したのである。

◆新旧メーカーの入れ替わり
「数字は正直です。97年から現在までの10年間をみるとトンあたりの建設単価は最盛期の半額まで値崩れしました。最近はやや回復基調にあるといいますが、利益率は最盛期の数%です。かつて30近くあったプラントメーカーが収益率の低下を理由に撤退していますし、残るメーカーも音を上げている状態です」。
 こういって最近の業界事情を話してくれたのは日本を代表する重化学工業専門誌のM記者である。彼はダイオキシン特需後のメーカーを丹念に訪ね歩き、企業の本音をトコトン聞き出すなど取材力では定評のあるベテラン記者である。彼によれば過去10年にわたる都市ごみ処理業界の動きは三つの時期に大別されるという。
 第一期は97年から01年にかけてのダイオキシン特需期である。
 もともと大型焼却炉市場は1964年の東京オリンピックを契機に参入した大手鉄鋼、造船、重機械メーカー5社によってほぼ独占されてきた。正確にいえば焼却炉専業のタクマを除く4社はすべてヨーロッパの焼却炉メーカーと技術提携した企業である。すなわち三菱重工業(ドイツ:マルチン)、日立造船(スイス:デ・ロール)、川崎重工業(ドイツ:フェライニヒテ・ゲッペルベルケ)、日本鋼管(デンマーク:フェルント)という組合せである。
 以上の5社による都市ごみ焼却炉市場の寡占化状態は90年代半ばまで続いたが、90年代後半、その地図は塗り換わった。それがダイオキシン対策の切り札を看板に新規参入した三井造船、荏原製作所、神戸製鋼所などのメーカー群を代表とする27ものガス化溶融炉メーカーである。
 無風状態に近かった焼却炉市場に過当競争の渦が巻き起こった。ダイオキシン特需期とはこれら新旧メーカーの入替わり時期でもあった。

◆急激な市場縮小
 第二期は02年から04年にかけての特需反動期である。この時期、焼却炉市場は急激に縮小し、発注量は2,011トンと最盛期の5分の1に落ち込んだ。いいかえればダイオキシン特需がプレイヤー急増をもたらし、市場縮小につながったのである。
 M氏がいう。
「ガス化溶融炉はストーカ炉よりも早く(特需期中盤から)安値受注がはじまりました。つまり後発メーカーは最初の受注で授業料を払い、2件目以降のプロジェクトで赤字を解消するという戦略でしたが、各社が同じように安値受注すれば市況全体がおのずと低下するのは当然で、一度下落した価格を正常に戻すのは至難の業でした」。
 この時期、建設単価もトンあたり5,000万円台から3,000万円台に急落している。
第三期は2004年から現在までの収益回復期である。ただし2004年度の年間発注量は一時2,000トンを下回り、多くのメーカーが市場から撤退している。残ったメーカーは何とか不毛な価格競争を回避しようと懸命だったが、いくつかの有力メーカーが談合によって指名停止を受けるという事態になった。この時期に流行ったジョークがあるとM氏はいう。
「2003年度の決算で黒字になったプラントメーカーが多かった。それはここ1、2年焼却炉の受注がなかったからである」。
 皮肉なことに過度の受注競争が静まったことで2007年度の建設単価は4,563万円に回復した。最安値だった2003年度からみて約40%の値上がりだとM氏はいう。そしてダイオキシン特需が終ったあたりから特筆すべきいくつかの出来事があった。

◆産廃と一廃の混焼事情
ひとつは産業廃棄物と一般廃棄物を同時に処理する、いわゆる混焼の動きである。
 代表的なものは倉敷市のPFI事業、水島エコワークス(05年4月操業開始・JFEサーモセレクト)だが、これ以前にも産廃処理施設に一廃を受け入れるケースは少なからずあった。その一部を年次的に整理してみる。、

*01年4月:茨城県「鹿島共同再資源化 センター」(Hitz日立造船) 
*02年12月:三重県四日市市「三重県 環境保全事業団廃棄物処理センター」 (クボタ・石川島播磨連合)
*03年9月:香川県「豊島廃棄物処理事業」(クボタ)
*04年1月:茨城県「エコフロンティアかさま」(JFEシャフト炉)

このように産廃施設に一般廃棄物を受入れる動きは、むろんビジネス絡みもあるが、もうひとつ巨大な施設をつくる地元への見返りの意味を持っている。たとえば香川県豊島の産廃を処理する代償として直島町の一廃を受入れたケースはその典型であり、茨城県笠間市や三重県四日市市(三重県下市町村からの焼却灰)なども同様である。
だが2004年1月、環境省はこれと逆の方針を打ち出した。「一般廃棄物の焼却施設で産廃を処理すれば国庫補助金の支出条件を緩和する」というものである。
 これまで自治体が自らの焼却炉(または溶融炉)で産廃を処理した場合、国から受けた建設補助の一部を返還せねばならなかった。そこで環境省は「受入れ産廃の量が焼却能力の半分以下である」ことを条件にこの措置を廃止したのである。
 産廃の焼却能力は排出量に対しギリギリなのに自治体の大型焼却施設は過剰気味。それが当時の環境省の見解だった。
 こうした動きが2001年度以降の急激な受注落ち込みに頭を悩ましていた環境プラントメーカーにとって救世主となり、ダイオキシン特需に代わる“産廃特需”が新たに生まれることになったかといえば必ずしもそうではない。何よりも地元住民の反発が強かった。以下はその一例である。 

◆受入れ方針を変更
「ごみが足りない」で悲鳴を上げていた北海道西いぶり広域連合(室蘭市など2市5町で構成:105トンのキルン型ガス化溶融炉2基)が産廃の受け入れ方針を打ち出したのは2007年夏のことであった。
 地元室蘭市の住民はこの動きに反発、再三公開質問状や要望書を広域連合に提出してきた。07年11月時点で質問状に対し広域連合から届いた回答は以下のとおりである。

①ごみの量は毎年5パーセントぐらい減っている、
②事業所から出る一般ごみの中に産廃が入っている、それを区別して産廃料金をとり、さらにそれ(産廃受入れ)を拡大したい、
③あわせ産廃はどこでもやっていることで悪いとは思わない、
④1炉に減らせというが、ごみが入りきらない時はどうするのか、等など。

 住民たちはいう。「私らは今まで210トンの炉は過大といってきたのですが、事務局長は過大ではないと自信ありげにしゃべっていました。実際はごみが足りず、産廃に目をつけたのです」。
 だが08年2月、広域連合は急きょ産廃受入れ方針を断念した。
 地元の代表紙・北海道新聞の記事を要約すると、①事業所の排出物には施設での処理に適さないものも多く、②いちばん受け入れたかった木くずは主に製紙工場で再利用されている、③紙類や廃プラは接着剤や泥など異物が付いたものが多く、④農業用ビニールシートなど、切断しなければ受け入れられないものも多かった、⑤産廃業者の処理料金が広域連合の予定より安い品目もある、など。特に⑤については産廃の中間処理業者も「ごみ集め」に苦労している様子がうかがえた。

◆いくつかの壁
 ダイオキシン規制が本格化するまで、自治体の焼却炉建設案件は「耐用年数を予測して数年前から準備」すればよかった。それも国が決めた構造指針(昭和61年8月15日付け衛環第144号通知別添1「ごみ処理施設構造指針」)を忠実に守って発注すれば国庫補助金が下り、住民対策さえ万全ならプロジェクトは進行したのである。
だが、2004年以降、事態は急変した。
 ひとつは受注時の過当競争でメーカー側にその補修責任がモロに被ってきたことである。このことは必然的に各企業の環境プラント部門の不採算化現象をもたらした。ガス化溶融炉など新技術が持つ宿命ともいえよう。
 第二に小泉政権時代の三位一体政策の余波で国庫補助制度が廃止され、代わって交付金制度(循環型社会形成推進交付金)が導入されたことである。
 第三に地方分権の掛け声を背景とする市町村合併ブームでそれまで進行していた受発注案件がそっくり棚上げか中止になるなどの混乱が各地に起きたことである。
 これらの事態をひとことでいえばメーカーの収益率が一部を除き著しく低下したこと、そしてユーザー側の自治体も財政難から施設のリニューアル(建替え・新設)が思うように進まなくなったことである。
 つまりメーカー、ユーザーともに大きなアキレス腱を抱え込んだということだ。
その解決策のひとつに登場してきたのがPFIであり、長期包括運営委託である。
 
注)
①PFI(Private Finance Initiative)
 公共サービスの提供に際して公共が直接施設を整備せずに民間資金を利用して施設整備とサービスの提供をゆだねる手法。これと別に公共が資金調達を行い、設計・建設、運営を民間に委託するDBOなどの方式がある(図3)。
②長期包括運営委託
施設の運転管理だけでなく、運営自体を民間に長期委託する契約。自治体にとっては財政負担の軽減につながり、民間(メーカー)にとっては新規受注の落ち込みをカバーする生き残り戦略の意味を持つというが、もう少し実績を積まないと判断はできない。04年ごろから普及し始めた方式。
                             (次回につづく)

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