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【人生の苦悩】(5) 幸福を求める苦悩

2010-11-26 00:55:31 | 高森光季>人生の苦悩

 どうもよくわからないのですけど……
 けっこう多くの人が「幸福になりたい」と言うようです。
 いわゆる「スピリチュアル」(笑)の書名でも、「すぐに幸福になるためのなんちゃら」とかいうような感じのが多いですよね。
 正直、私はこの「幸福」というのがよくわからないのです。幸福になりたい?
 「こういうものがほしい」「こうなりたい」という欲求は誰でもありますよね。私もそういう
欲求はあります。でも「幸福になりたい」という欲求の仕方は何かピンと来ない。
 はるか昔のことですけど、幸福幸福と言い立てる人に、「え? 幸福なんて、簡単なもんでしょ。好きな相手とベッドインしたりとか、絶景の露天風呂につかったりとか、それで幸福じゃない? 長持ちしないけど」と言った覚えがあります。喜悦の絶頂というのは、割合簡単に実現する。けどそれは一瞬のものだし、そういうものをずっと求め続けてもそりゃ無理、と。まあ、あまりの身も蓋もなさに相手はあきれていましたが。
 でもやはり、幸福というのは、それ自体を求めるものではない。幸福になろうとすると、逆に苦しくなる。

 V・E・フランクルは、こんなふうに言っています。
《生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な義務なのです。たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。しあわせというものは思いがけず手に入るものにすぎず、けっして追い求められないものであるわけですから、しあわせを得ようとすれば、いつも失敗することになるのです。その点、キェルケゴールは、賢明なたとえをのべた人でした。彼によれば、しあわせの扉は、「外に向かって」開くのです。つまり、しきりにしあわせを追い求める人、しあわせへの扉を無理やり押そうとしている人には、まさにそれは閉ざされているのです。》(『それでも人生にイエスと言う』25-6頁)

 まったくその通りで、幸福感というのは、向こうから勝手にやってくるもの、おまけのご褒美みたいなもので、こちらでコントロールできるものではありません。
 私はユングのタイプ論で行くと内向感情タイプのようなのですが、たとえば、旅をしていて、ふとした光景に、心の中に切なくなるような不思議な感情があふれることがあります。それは私にとってはこの上ない幸福感なんですけれども、それは、必ずしも風光明媚な場所とか、天下の絶景とかを見た時に起こるわけではなく、何でもない街角や野原の、ふとした光や風を感じた時に、湧き起こったりするのです。だから、それを得るために旅を計画することはできない。天下の名所ばかりをまわっても、まったく意味はないのです。確かに旅に出て、心を揺すぶったり、体を疲れさせたりしないと、その「感情の幸福」は得られない。けれどもそうやってもいつも得られるとは限らない。つまり、旅をしようという意欲と、「幸福感」を得ようという意図とは、全然ひとつにはならない。というか、「幸福感を得よう」という画策は、そもそも成立しないのです。

 フランクルは、別のところで、「多幸症」についても話しています。多幸症とは、おそらく脳の器質的欠陥によって、常に幸福感を感じている状態、いかなる不安も苦悩も感じないようになっている状態の病気です(脳の外科手術、いわゆるロボトミーによってもこの状態は作り出せるそうです)。そしてフランクルは、これが人間の望む状態だろうか、これに誰もが憧れるだろうか、と問うています。

 もうひとつ、幸福という言葉には、他者との比較がはいりこむこともあるみたいです。あの人は私より幸福、私はこういった人たちよりは幸福……。
 けれども、これこそまったくひどい錯覚でしょう。魂が求めているものはそれぞれまったく違うし、魂の成長のために与えられる「恩寵」もそれぞれまったく違う。幸福だの成功だの充実だのを、他者と比較しても意味はありませんよね。
 誰もが言っていることですが、豪邸を持っていることや、資産を持っていることや、権力や地位を持っていることは、幸福とは関係がない。ほんとですよ。
 でもそれが幸福なのだと多くの人が錯覚して、逆に苦しむ。

      *      *      *

 ある方から教わったとてもいいお話をします。それは、
 「たのしい」と「うれしい」は違うよ、と。
 「たのしい」というのは、過ぎてしまえば、何も残らない。
 「うれしい」というのは、心の奥深くに積まれていくもの。
 「たのしい」は単なる時間つぶし。「うれしい」は魂が望んでいること、残り続けていくもの。
 「うれしい」ことは何かを、しっかりと考えてみなさい、と。

 結構むずかしいかもしれません。
 「うれしい」というのは、踊り出すような、激しいものではなく、どちらかと言えば、達成感や充実感に近い、魂の奥で静かに感じるようなものだと言えるでしょうか。

 引用ついでに、フランクルをまた引けば、彼は、人間の生には三つの価値があると言います。
 ①体験価値――人間関係や、美や、快楽・苦悩を体験する。まあ普通に生きているだけでも価値はあるわけですね。濃密な、充実した体験ならより価値が大きいのかもしれません。
 ②創造価値――何かを創り出すこと。とんでもない天才でなくても、人はいろいろなものを創り出しますよね。個々の人間関係も、ちょっとした商売の工夫も、ある見方をすれば一つの「創造」なのかもしれません。
 ③態度価値――これはフランクル独特の主張で、もう普通の活動ができなくなった人間でも、その人が取る態度で価値を実現できるというものです。強制収容所で明日ガス室に送られることになっていても、そこでしっかりと自らを保ち、弱い者への配慮をし、神に祈りを捧げる、そうした態度を示すことが、すばらしい価値だろうと。
 人への奉仕というのも、この③に含まれるのかもしれません。たいしたことができなくても、そっと人の魂に働きかけ、こちらもある種の充実感を覚える。どういう実効があったのかよりも、その時の態度=向かい方が重要な気がします。
 これらの三つとも、それを実現するのは「うれしい」ことでしょう。
 一番うれしさを感じられるのは、他の人の役に立てた時ではないかと私は思いますけど。

 「幸福を追い求める」というのをやめて、「“うれしい”を体験できるように生きる」というふうにしたらいいのかもしれませんね。


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