平出一治氏が、「昭和の道祖神」と題して初めて『遙北通信』(遙北石造文化同好会)に報告文を掲載されたのは、わたしが同誌へ何度となく道祖神関係の行事を報告するようになってからの、昭和63年3月20日発行の第57号であった。諏訪地域に昭和建立の道祖神が多いことに気づかれて報告いただいたもので、以後平成6年5月1日発行の第141号まで、48回に渡って諏訪地域の昭和の道祖神を紹介いただいた。最初に投稿いただいたものが、下記のものであった。
昭和の道祖神1
富士見町富原の双体像 (『遙北通信』第57号 昭和63年3月20発行) 平出一冶
諏訪地方の道祖神を見て歩き、昭和建立の道祖神の多いことに驚いている。それらを順次紹介してみたい。
諏訪那富士見町の富原は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館の庭に祀られている。安山岩の前面を平らに研磨し、二神をレリーフしたもので、同質の台石上に鎮座している。二神の上には横書きで「道祖神」と刻まれている。古い双体像にはみられない手法である。
大きさは高さ105cm、幅32cm、厚さ38cm。男女二神とも同じ大きさで像高は46cm。台石の高さは62cmを計る。
銘文 (表面) 道祖神
昭和五十七年十月吉日
富原区建之
次いで「昭和の道祖神2」は前回の「富士見町御射山神戸の双体道祖神」で紹介したもので、第3回は第59号へ投稿いただいた下記のものであった。
昭和の道祖神3
富士見町南原山の双体像 (『遙北通信』第59号 昭和63年4月17日発行) 平出一冶
諏訪那富士見町の南原山は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館近くの県道払沢-富士見線の路傍に祀られている。鉄平石(平板状)の自然石に二神をレリーフしたもので、安山岩の台石上に鎮座している。二神の彫りは極めて良いものである。二神の下には横書きで「道祖神」と刻まれているが、古い双体像にはみられない手法である。なお、女神の唇には紅がみられる。
昭和五十五年に庚申塔建立に関する調査の折に、富士見町の植松石材店を訪れたとき、この道祖神を建てた話を聞いている。
大きさは高さ130cm、幅126cm、厚さ38cm。像高は男神が43cm、女神が41cmである。台石の高さは58cmを計る。
銘文(表面) 道祖神 (横書き)
(裏面) 昭和五十三年十二月吉日
南原山区建之
これら昭和の道祖神のうち、とりわけ戦後に建立されたものは、いわゆる各市町村などが発行した石造文化財調査報告書には、未掲載のものが多い。もちろん報告書の調査がされた以降に建立されたものが未掲載のことは当然のことだが、そもそも「文化財」と銘打った報告書に、こうした新しいものを掲載することの是非も問われたのだろう。しかしながら前回も触れたように、すでに戦後半世紀以上を経過しており、気がつけば世の中は大きく変わり、建立後100年を迎えるのもそう遠くないことになる。「現代」であってもその変化は著しく、またその時々の人々の建立への思いは異なっていく。そう遠くない過去の時代のことであっても、実際の建立動機や、建立時の様子は、記録されていたとしても忘れられてしまう傾向がある。こうした報告が、後に意味あるものとして捉えられればありがたいことである。
※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。
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