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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

昭和62年の記憶① 長門町長久保の獅子舞

2020-12-26 23:45:44 | つぶやき

昭和61年の記憶 最終章より

 昭和61年の翌年、昭和62年の記録を紐解くと、前年ほど精力的ではないものの、多くの地域を訪れている。あらためて昭和62年を前年に引き続き振り返ってみよう。年老いたわたしの回想録である。

 元旦の朝、長門町(現長和町)に向かって家を出た。小県郡の依田川流域で、正月に子ども達によって獅子舞が舞われていることを知ったのは、八十二銀行の年中行事などを特集したパンフレットからだった。そこに元旦に行なわれているということが記されていて、とくに問い合わせをしたでもない、「行ってみよう」と思い立って足を運んだ。現在は知らないが、当時はどこの集落でも獅子舞が舞われていた。長門町の中心部、観音寺の駐車場に車を止め、旧中仙道界隈を歩くと、子ども達による獅子舞が各戸をまわっている姿が見えた。各戸をまわったあとに、時を置いて荷車に神楽を載せて町内を巡回する。その日はほぼ1日長門周辺に身を置いた。

 このことについては、『まつり通信』323号(まつり同好会 1987.12.20発行)に「道祖神の獅子舞い―長野県小県郡長門町を中心に―」と題して報告した。そのうちの「長門町の獅子舞」をここに引用してみる。

 

  長門町の獅子舞

 小県郡長門町は、霧ヶ峰で知られる車山の北側の麓に位置し諏訪湖から軽井沢方面へぬける国道142号線の沿線にあたる。旧中仙道の長久保宿を中心に開けたのがこの長門町で、南接する和田村についても後述するが現在でも宿場の残影を残す所である。
 長門町は古町、長久保、大門を中心に集落があり、特に長久保は町の中心で役場などの行政機関が置かれている。町内を歩けば宿場の趣を残した建物が多くあり、その昔は本陣2、脇本陣1、旅籠43を置き、下諏訪に次ぐ大きな宿場だったという。
 長門町においては長久保のほか、大門、古町にも子供の獅子舞が残されているという。
 長久保には、竪町、横町に各一つずつの獅子舞いがあり、共に舞方により、各戸を回るものと、挽方により町内を回るものの二形式の形が残されている。
 ここでは現在挽方による練りは台車に神楽殿をのせて引いて歩いているが、昔は台車ではなく担いでまわる形であったという。車には大太鼓と小太鼓をつけ、親方がこの太鼓を打つという。係には車力係、御幣係、挽手、また夜のみの提灯持がつく。
 12月31日から1月2日まで行なわれ、昔は3日まで行っていたと、町誌などに記載がある。大晦日の夕方から獅子の神楽殿を挽く練りが行われ、1日には朝から各戸を獅子が舞って歩く、舞方の所作が行われている。これは全戸回るまで行われ、午後1時と6時の2回、大晦日同様に挽方による練りがある。そして、この1日と同じように2日も行われるという。
 舞い方は、午前7時頃に始まり、内を二つに分かれ舞っていくのである。御幣を持ち獅子頭は交替しながら担当していく。頭に1人、幌持ちに1人つき、御祝儀袋を持ち集める者など5、6人が一組になり行われ家の前へ行くと「おめっとー、おめっとー」と大声をかけ、家の中へ入っていくのである。そして、
 「獅子の御年始、頭が低いかおしりが高いか 始めて神楽を舞いたてまつるよな。」
とはやして舞い、終わると家内の人の頭を噛んで終わる。はやしの唄はかなりの早口で、一回聞いたぐらいではとても聞きとれないほどである。
 他に次のような唄がある。
 「めでたく獅子が舞いたてまつるよなー。」
 「獅子は三尺さがって悪魔をはらうよなー。」
 舞いが終わると御祝儀をもらって次の家へと舞って行くのである。2日間同じように各家を回っていくので御祝儀もかなりの金額になるという。お金は親方が多く、小さい子は少なく配分されていたという。
 予定では午前中にすべての家を回るということであるが件数も多く、子供達は急いで次の家へ移って行くが、中には朝早いので寝ていて鍵の締まっている家もある。また舞い方も簡単にはやすだけだったり、頼まれて家中まわり悪魔払いをし、家中皆の頭を噛んで歩いたりとさまざまである。現代子だけに簡単でいいと言われれば「このうちはいいなー」などと言って次の家へ足早に行くのである。
 獅子挽きは午後1時、集会所から始まる。「神楽」と呼ばれる台車を挽きながら集落の上の方の道祖神から下の方の道祖神に向かって練っていくのである。台車上のお宮には丸一の紋があり江戸時代、東海から関東にかけて流布した丸一の大神楽の流れをくむものであろうか。
 獅子挽きには女の子もいれば大人もいて、子供組習俗の中の男の子のまつりというものが失われつつあるのを感じた。交通整理などの世話役をしていた方に聞いたところ、昔は男の子だけで行い、中学2年生の子が親方になり、その子の家が宿になっていたという。また子供組の組織が確立していただけに上の者は小さい子の面倒を見て、けがをすれば台車に乗せたり肩車をして世話をしたという。
 現在は宿も集会所にかわり、小さい子供には親がついてくるような状態で、本来の行事の意味が失われてしまうのも当然なのかもしれない。
 先にも述べているように、ここでは台車に神楽殿をのせて挽いているが昔は担いで回ったという。いつごろから台車にのせる形になったのかはわからなかったが、車には大太鼓と小太鼓をつけ親方がこの太鼓を打つ。
 この練りは、まず集落上部の松尾神社入口近くにある道祖神の近くまで行き、御幣と獅子が道祖神の所までとんで行き、「どうそじんばんざい」とバンザイをしなから叫んで走って戻ってくるという珍しい所作をする。長久保の町内をこのように、道祖神の近くまで行くと同じように御幣と獅子が道祖神までとんで行き「ばんざい」をして回って行くのである。
 途中、横町の獅子挽きとすれ違うと大きな声で競り合うのが昔であったというが、今はかけ声をかける程度であった。
 この獅子挽きの時の唄があり、それらは次のようなものである。

・はじめて神楽を舞いたてまつるよなー
・門には松竹おとめをかざる祭りよなー
・かざるおとめは悪魔をはらうよなー
・家内一同ニコニコえびす、だいこくだとなー
・五穀ほうじょう蚕あたるとなー
・獅子はけものの王様だとなー
・獅子は悪魔をはらい目出たいなー
・獅子は十六ささげの年だよなー
・長久保(横町・立町)の獅子はめでたいなー

 この唄は横町も竪町も同じということである。
 4ヶ所の道祖神を回った後、会所へ戻り獅子挽きは終わる。夜の獅子挽きは拝見しなかったが、提灯が出て祭り気分も高く人も多いようである。
 発生については不明というが「文政十丁亥日記」(羽毛田家所蔵)に左記のように子供獅子についての記録が残されている。

九日(正月)天気不晴、西風強し。
 小児等横町裏に道祖屋を作りし事不宜とて、可引払はすと近所江役元よりことはる。白木屋、池田屋当役中に出し小児等神妙せんと言て日延願せし由、小児横町裏の道祖神の詞を再建寄進と言うにかこつけて、勧物過たるともいいつべしか。

十五日天気よし。
 小児獅子を舞ふこと楽しみとす、ほうびを被呉もありと。

 

 「文政辛巳日記」(文政四年)には

正月十四日
 横町の仙弥殿年四十余、妻も三十にして一子なし、或時仙弥、町の小児等に言うて、妻の子を生むこと有ば道祖神に太鼓を買て献し、小児達の戯具に備えんと約せし事有Lに、其妻去月男子を生む。仙弥悦んで不山。ここに至而太鼓を買求めて与。小児等子の生れん事を道祖神に祈りしと言う。

十三日天気よし
 横町の小児、才の神の御幣を建、立町にては一両日も以前建しか。

 

 なお、旧正月3日の午後「テンノウアゲ」と称し、あと祭りが行われ、各自米、味噌、野菜などを持ち寄り、道祖神に参拝して獅子の宿で会食が行われたというが、現在も行われているかについては確認することをもらしてしまったのは残念であった。
 またこの際に「道祖神」(竪町)、「塞座三柱神」(横町)のお札を町中に配る風習もあるという。
 竪町の道祖神は4ヶ所。松尾神社入口近くの道祖神は双体像が2体あり、1体は風化が激しいがもう一体はなかなかの彫りもので、盃を持つ肩組み像である。碑高55cm、碑幅37cm、像高37cmの像で、この辺りの道祖神は安山岩系の石質のものが多く残されているのに気がつく。同所には多数の奇石があり、陰陽石もある。石棒の長さが26cm、亀頭径が11cmというものがある。
 次に集会所の近く、観音寺の川向こうに「道祖神」碑が一体奇岩1体ある。その道祖神から旧県道へ下った所にやはり奇岩があり、もう1ヶ所はその旧県道を古町の方へ行った所、役場入口よりさらに北に位置する道端に奇石がある。
 獅子挽きはこの順に回って行ったわけである。

 

旧長門町長久保(昭和62年1月1日撮影)

 

 長久保には翌昭和63年にも訪れている。

 

昭和62年の記憶② 和田村中組の獅子舞


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