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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

道祖神の獅子舞④

2018-04-26 23:35:35 | 民俗学

道祖神の獅子舞③より

 わたしは「遙北」第75号に引き続き同76号へ「道祖神の獅子舞」其の3として、山梨県東山梨郡牧丘町の祭りについて報告している。「遙北」は76号を最後に、以後発行されていない。平出一治氏の報告にも感化されて、道祖神の獅子舞についてこの時期大変興味を持っていたと記憶する。牧丘町は現在の山梨市に新設合併された町である。北側に長野県南佐久郡川上村とわずかながら接している。報告文中にもあるように昭和62年と63年と、2年続きに小正月に訪れている。何度も足を運びたいと思うほど興味をそそられたが、以後足を踏み入れたことは現在までない。あれから30年以上を経ているから、ずいぶん様子は変わっているのだろう。

 

道祖神の獅子舞

其の3 山梨県東山梨郡牧丘町の祭り (「遙北」第76号 平成元年4月1日発行) HP管理者

 

 1. はじめに

 

 道祖神の獅子舞について「遙北」第74号において、長野県南佐久那南相木(みなみあいき)村について述べ、第75号においては、同県小県(ちいさがた)郡長門(ながと)町のものについて述べてきた。八ツケ岳の北側に位置するこれらの地域において、今も多く残されている道祖神祭りの獅子舞が、八ツケ岳の南東である山梨県内でも、各地に残されている。静岡県に近い南巨摩那南部町。そのすぐ近く西八代郡下部町や市川大門町。そして、中巨摩那櫛形町や東八代郡牧丘(まきおか)町でも行なわれている。長野県に比較すると、面積の小さい山梨県には、どの地方に多いという表現よりも、全県に分布しているという述べ方になるだろうか。

 私は昭和62年と63年に、牧丘町と櫛形町の道祖神祭りを見る機会を得た。ここでは、牧丘町の祭りについて紹介し、山梨県の特色を述べてみたい。

 牧丘町は、位置図(省略)に示すように甲府盆地の北東部に位置し、西に甲府市、南に山梨市、東に塩山市と接する。これだけ市部に接しながらも地形的には秩父山地の麓に展開する山深い地域である。注目したいところは、北に長野県南佐久郡川上村がある点である。後述するが、西接する甲府市の山間地、黒平地区より獅子舞が伝えられた、と牧丘町塩平に伝えられている。この地域もまた、川上村と接している。川上村といえば、私はまだ見てないが、ここにも道祖神の獅子舞が残されている。特に川上村には「おかたぶち」という行事もあり、道祖神の祭りが盛んに行なわれている地域であり、ここと隣接している牧丘町に、一層興味が湧くのである。ちなみに川上村の北隣には、南相木村が位置する。

 さて、位置的説明を頭の中に入れて、牧丘町の祭りを紹介し、再び地域全体的なものを述べていきたい。

 

 

 2. 牧丘町鼓川周辺の祭り

 

 牧丘町では笛吹川が南側の塩山市境にあり、その支流である琴川と鼓川を大きな谷として大きく分けると、笛吹川筋、琴川筋、鼓川筋という集落の広がりがある。現在道祖神の祭りを中心として、小正月に行なわれる行事を、よく残している地域は鼓川周辺にある。

 

① 塩平

 鼓川の最も奥の集落が塩平である。ここは公卿(くげ)の落人により開拓されたといわれる所で、公卿平、公卿の墓などの遺跡がある。

 集落の入口に道祖神があり、そこには石神型の道祖神と双体道祖神が並んでいる。石神型の中には双体の小像が納められている。とはいっても、道祖神の上には藁で作られた「オカリヤ」があり、道祖神は隙間からのぞかないと見えない。オカリヤについては、呼称がさまざまだが、「コヤ」、あるいは「オカリヤン」などと言う。この「カリ」は、男根の亀頭雁首の呼称で、その形も男根そのものである。「お仮屋」が本来の意味を持つ呼び方であり、この地で行なわれる男根を作る形になったのは、どういう意味があるのだろうか。

 その形については、写真に示す通りで、仮屋の方は藁で作られる場合が多いが、塩平では杉の枝で覆われている。元々は男根がない仮屋だったところへ、後につけられたものだろうか。ここの男根は、2メートル近くある長いもので、直径は50cm程度である。大きな藁束を丸くたばね、その一端を堅く縛り、反転させると丸く坊主頭型になる。そして、その頭にはみかんが付けられ、首は縄で縛られ、男根亀頭とすぐわかる。

 オカリヤの前には「オヤマ」といわれる神木が立てられている。小正月に来臨する神の依り代として作られるものといわれ、華やかに誰の目から見ても美しく目を引くもの、神が寄りつくにふさわしいものとして作るという。甲府盆地東部においては「ヤマ」という呼称が通常であるが他ではヤナギ・オシンポクなどの呼称にもなる。(神木分布図参照)

 私が見た、オヤマの数はわずかでその全てを見てからでないと、とても語れることではないが、ここのヤマはなかなか見事で、牧丘町周辺では代表的なものといえよう。その形については写真のようであるが、丸太を職立てに立て、やなぎが12本つき、その上のあたりから細く割った竹が付けられ、そこには色紙を折ったものや、「トンプクロ」と呼ばれる飾りが吊されており、その上には幣束が付く。ヤナギのあたりから綱が何本か張られている。西の山を越えた甲府市黒平では、神木から全戸の家の自在鈎へ綱を縛り付ける習俗があり、この綱のことを「ヨバイヅナ(夜這綱)と称しているという。また、同じ鼓川から支流赤芝川をさかのぼった膝立では、昔、神木から年頃の娘のある家や、最近結婚した人の家まで綱を張ったという。場所によっては、やなぎを全戸分作った所もあるようで、特に綱のことを注目する著書はないが、山梨文化財研究所の堀内真氏によると、やなぎとこの綱は、同様のものだったのではないかという。

 やなぎに吊される「トンプクロ」は、「コンプクロ」ともいい、オテングサマ(天狗)の巾着だといわれる。トンブクロは、一軒でいくつか作るといい、昔は布で作られたもので、針仕事上達の俗信がある。

 塩平では、オヤマもオカリヤも、十四日の午前に作られる。かつては、11日に作られたというが、14日に作りオカリヤは夕方に焼かれてしまうということで、惜しむ声もあった。

 

塩平オカリヤ

 

塩平のオヤマ

 

塩平の獅子舞

 

 祭りは午後3時頃、宿の家で獅子舞が行なわれ、始まる。宿の家は、前年嫁を迎えた家を選ぶという。私は、宿の家の舞を見学してないが、御幣の舞で始まるという。昔は小正月に、式三番(しきさんば)、獅子舞、鳥刺し踊り、地芝居など多くの芸能を行なっており、かなり盛んな小正月行事が見られたという。現在は三番叟(さんばそう)と獅子舞が伝統を伝えている(甲斐路4号・1962年…山梨郷土研究会…「塩平の小正月」より)というが、三番叟について現在、直面の「揉の段」の一部分のみを伝えている(まつり通信335号・山梨県の小正月の芸能…高山茂著…まつり同好会)という。

 ちなみに三番叟は、式三番(しきさんば)の中の一演目である。式三番は猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目で、千歳(せんざい)・翁(おきな・三番叟の3人の舞を組み合わせたものをいう。これが能・歌舞伎・人形芝居や神楽・田楽などにも普及し伝承されている。

 この三番叟も宿の家で舞われるというが、前述したように拝見していない。宿を出た獅子舞の行列が道中を練り、道祖神場へ向かう。さすがに塩平の祭りは地名度が高く、村外からの見学者が多く、さながら郷土芸能の最近の顕著な姿を見る思いがする。道祖神場に着くと、獅子舞がオカリヤの前で一舞される。舞そのものは、獅子頭を一人がかぶり、鈴と幣(のさ)を持って舞うものと、鈴と剣を持って舞う2種のもので、後方が幌を扱う大神楽獅子の典型的な形を見せる。種類には「幕の舞」「ご幣の舞」「剣の舞」「狂の舞」などがある。獅子舞は15日に、各家を回るという。道祖神の祭りに獅子舞が行なわれている理由について堀内真氏は、道祖神祭りに厄除けの要素があり、厄年の者や新婚夫婦のお拭いの形を獅子舞に託したものだという。かつては盛大に行なわれた小正月の一連の行事が、1年で最も大きな祭りと考えられ、獅子舞による悪魔払いの要素が、厄払いの意味も含め、取り入れられていったのだろう。私の住む伊那谷に多く分布する獅子舞が、神社祭礼で悪魔払いの要素を強くするのと同様で、この地域では小正月にその形が現われたといえる。長野県東部の小県(ちいさがた)や佐久地方において、同様に小正月に盛大に獅子舞を行なうように、神社祭礼よりも身近な民間信仰へ導入されていったと見られる。私から思うと、自分の育った地域の獅子舞というと、神社祭礼が通例で、小正月の獅子舞は異例にも見えた。しかし、かつては私の地方でも、正月に外来の者が獅子を舞いに訪れたということで、山村には正月の獅子舞の方が通例であったのかもしれない。

 塩平においては、この一連の民俗芸能(式三番や獅子舞)の伝承先を、甲府市黒平と見ている。黒平は山一つ越えた所に位置し、かつては塩平との縁組も多かったという。この黒平においても式三番と獅子舞が伝承されており、よく知られている。宝永4年(1707)に塩平村中惣百姓連判で出された「西保村入会山に関する文書」に、

 

一 西保北原村枝郷塩平村之儀、先祖は北山筋黒平村之者に而御座候、往昔御富士鷹守に被仰付西保山中拾八ケ村入組の之内塩平と申所に居住仕刃候

 

とある(甲斐路4号・1962年…「塩平の小正月」所載)。黒平との関りのあることを証明している。このように黒平からの伝播を伝えているが、明確な資料はなく、また、始められた年代も定かでない。しかし、350年ほど前からという伝えもあり、かなり古い時代より行なわれていたことは確かなようである。

 さて、獅子舞がオカリヤの前で終わると、オカリヤが石祠型道祖神からはずされ「オドンドン焼き」となる。付近の人々は針金の太いものに餅を刺して持ち寄り、餅を火であぶり焼く。これはどこでも見られる風景なので、特に説明はいらないだろう。なお、オヤマは21日に倒されるという。

 

② 北原

 塩平から少し下ると漆川のが対岸に広がり、さらに下ると北原下道(しもみち)の集落がある。道端に立つオヤマが目立つのですぐわかる。

 ここのオカリヤは、やはり石祠の上に藁で四角に小屋を作ったものである。前方の中央に男根を象り藁棒が突出している。1メートル余ある棒の先端は、亀頭を思わせるように作られ、頭にみかんが付けられ、棒にはりんごが二つ吊されている。これらはおもしろおかしく知恵を見せたのだろうが、他のの人々は品が無いなどと評したりしており、各とも個性を見せている。

 オヤマは10メートル近いもので、先に竹竿が付けられ、色紙やトンプクロが吊されている。やなぎは七本付けられており、やはり塩平のものに比べると簡略になっていることがうかがわれる。ここでも21日の朝倒され、花は各戸で持って行くという。

 北原下道の道祖神場は集会所の前で、この日は集会所に人々が集まり、余興をして酒と肴で小正月の1日を楽しむ。カラオケの声も聞こえ、子供達も加わり一年中で最も楽しみな日のようである。この日を「お天神様」の祭りともいい、子供達の祭りも同時に行なっているようである。15日に獅子舞を子供達が行なうということで、14日、集会所では舞い始めともいえるのだろうか、余興の中で子供達により獅子舞が行なわれるようである。

 午後4時半過ぎ、すぐそばにある火の見櫓の鐘がたたかれる。これがドンドン焼きの合図となり、人々は餅を持ち集まって来る。オカリヤが道祖神から取り除かれ、下の広場に集められ火が付けられる。今ひとつ人寄りが少ないところをみると、ここではドンドン焼きに対する意識が薄いことを感じた。

 15日に子供達が獅子舞をして各戸を回るということだが、ここでは青年衆ではなく、子供の手によって行なわれている。

北原のオヤマ

 

北原のオカリヤ

 

③ 牧平(まきだいら)

 北原を少し下ると牧平である。鼓川と赤芝川が合流する所で、ここでも道端に大きなオヤマが立っていてすぐわかる。

 ここのオカリヤは、長さ1.8メートル、幅も1.8メートル、高さ1.6メートルと大きく、中に道祖神が祀られている。前方に突出した男根は長さ0.7メートルのもので、男根の根元には藁で作られた玉が二つ付けられている。

 オヤマは11日に作られるという。上伊那那辰野町によく見られる大文字(デーモンジ)の行事においても、道祖神の近くに同様の神木を立てているが、これらが全て幟竿専用の竿立てを有していることについて、以前長野県民俗の会の例会に参加した折、話題になったことを思い出す。考えてみると、神社祭礼の折に、神社参道に立つ幟旗は竿立てに固定されているが、これと同様の竿立てが、道祖神の近くにあることについて、やはり道祖神の祭り専用に作られたものなのだろうか、と疑問にも思った。牧平においても石祠型の道祖神の横に、この竿立てがあり、ここにオヤマが立てられており、同様に考えさせられる点で、付近でも同じようなことが見られる。

 午後8時頃、人々が集まって来る。ここ1年の間に夫婦となった者が、オカリヤの中にある道祖神にお参りし、みかんや酒が奉納される。そして、この夫婦が紹介されると獅子舞となる。「牧平若衆」のはっぴを付けた若者が、頭をかぶり、後方に幌持ちがつく大神楽獅子である。笛と太鼓に囃され舞が始まるが、なかなか本格的なものである。鈴と幣を持ち舞う「幣の舞」に始まり、「剣の舞」「狂の舞」と続く。「ノミ取り」といわれる舞は、道に寝転んでノミを取る所作をするものである。また、ここの舞は途中オカリヤの男根とふざけ合う所作があり、おもしろい。

 獅子舞が終わるとオカリヤを壊し、200メートルほど下の川端まで引きずって行き、そこで焼かれる。

牧平の獅子舞

 

牧平 新婚夫婦がオカリヤに祈願

 

厄を投げる

 

⑧ 中野

 牧平からまた鼓川を下って行くと、中野という集落があり、道端に突出したオカリヤが目立つ。

 ここのオカリヤは、杉の枝で石祠の上にオカリヤを作っており、近隣では他と少し形式が異なる。しかし男根は他と同じように藁を束ねて作ったもので、その姿は陰毛の中に突出した男根を思わせている。前に「道祖神」の燈篭が二つおかれ、しめ縄が張られている。オカリヤ・オヤマ共に11日に作られ、オヤマを倒すのは21日ということである。

 午後6時に道祖神の前に集合すると、行列らしきものをつくり、の下の方から一軒一軒22戸を回って行く。先頭で悪魔払いの笹を持った区長さんが先導し、子供が燈篭を持ち、獅子頭が続く。かつては獅子舞をしたというが、もう50年ほど前から舞わなくなり、舞そのものも忘れられている。したがって獅子頭は持って歩くだけというなさけないものであった。

 このように家々を回る時、唄がある。これも最近は歌わないというが、たまたま私がカセットレコーダーを持っており、歌ってくれないかとお願いしたところ、次のように歌ってくれた。

 

 お祝い申せ

 オッカッサはうちにかー

 なんど(納戸)のすみで

 ポボの毛を三十三本そろえて

 もう一本たりんぞー

 

 子供に良くないということで歌わなくなったということらしいが、昔は他にも色々唄があったようである。したがって現在では「お祝い申せ」を繰り返しているという。この日は「年に一度だ」といって終わるまで歌っていた。

 近くのでは15日に獅子舞をして各戸を回るということも話していた。

 写真は、たまたま「オメイダンゴ」がきれいに飾ってある家があったので、写真を撮らせてほしいと上がり込んだら、獅子頭をつけてくれたもので、普段はこういう恰好はしていない。区長さんは笹を持ち、神棚を払う。

中野 家々を回る

 

中野 各家の神棚を祓う

 

 

 3. 山梨県における道祖神の祭りと牧丘町の位置づけ

 

 私が訪れた山梨県の道祖神の数は、わずかで、道祖神そのものについての紹介はさほどできないが、ここ2年ほどに訪れた祭りから見た山梨県における特徴を、中間報告として紹介し、私としてもまとめておき、これからの課題としておきたい。

 ここで手元にある昭和63年1月14日に行なわれた山梨文化財研究所主催の第1回民俗学シンポジウムの資料を元に、全体的なもめを紹介する。

 山梨県下においての道祖神の祭りは、正月を中心に行なわれるが、他に4月・7月・9月などに行なう所もある。しかし、祭りの内容は小屋を作り、神木を立て、火祭りをするということが中心のようで、大差はないようである。

 道祖神そのものの呼称として「ドウソジン」「ドウソウジン」などが一般的なようである。また形態については、よく知られているように、山梨県といえば、丸石神が中心的である。また、石祠型も多く、双体石像もかなり見られる。

 また、この資料より目を引く祭りを紹介しておく。

・北巨摩耶白州町「ワラ馬引き」

・南巨摩郡南部町上佐野「獅子舞」

・西八代郡市川大門町山家「獅子舞」

・西八代郡下部町「獅子舞とオカタプチ」

・南都留那川口湖町小立「オンベエ渡し」

・富士吉田市向原

・南都留郡西桂町   石合戦

・南都留郡道志村

 

 火祭りの呼称については図のようである。また、牧丘町で作られているようなオカリヤの分布は、あまり一般的ではなく、作らない所の方が多いようである。その呼び方も「コヤ」「ヤグラ」「オチョウヤ」などがある。火祭りによる俗信については、全国的に分布するものと同様で、病気、風邪にならない・虫歯にならない・字が上達する・養蚕があたる・虫よけなどである。

 山梨県における道祖神信仰の特徴を物語る地域に、富士山麓がある。遙北通信で紹介してきたように、この地域では性神的要素が強くあり、これが道祖神の祭りに姿を見せている。私は、この地域の道祖神行事を訪れていないので定かでないが、これらの習俗が現在では衰退しているようである。

 牧丘町に見るオカリヤのような男根を飾らない所でも、かつては男根石や石棒など男根形の祭具を御神体としていたという。前述した中野の囃し言葉が卑猥に語られる点、また、塩平において嫁をとった家を宿として扱っているように、新婚の家を回り道祖神が祝い込むことが、祭りの本来だったのだろうか。特に新婚の家の祝いとして行なわれる祭りが、「オカタプチ」や「オンベエ渡し」などと称し、富士山麓に見られる。そして、男根形の祭具を新婚の家を回る時持参する習俗は、山梨県のみに限らず、全国的にも伝承されており、これらと関わりオカリヤとして、残るようになったのだろうか。いずれにしても、牧丘町に限らず道祖神の小屋を作る所があり、「仮屋」としての傾向が強い。そこへ男根を取り付けることにより、男根の亀頭雁首の称をとり、「オカリヤ」が派生したのだろう。

 このような小屋に男根を飾る例が、この地域だけでなく他にもあるだろうと考えられるが、私はよく知らない。ただ、最近気づいたのだが、私の住む飯島町の近く、下伊那郡大鹿村の上蔵(わぞう)から奥にかけて「オカリヤ」というものが作られ、男根が飾られている(「大河原の民俗」大鹿村教育委員会)ことを知った。平成元年の小正月に訪れてみたが、「オカリヤ」の呼称は聞かれなかったが、男根を象ったものが「セーノカミ」などと称し作られていた。

 オカリヤについては以上として、次に獅子舞について少し述べることにする。昭和63年の小正月に中巨摩那櫛形町を訪れた。ここの下市之瀬で獅子舞が道祖神の祭りとして行なわれているが、夜、寺で行なわれる余興の中で、獅子狂言も行なわれている。塩平などでも、かつては小正月の行事として地芝居なども含め、かなり盛大な余興が行なわれていたと前述した。これらから考えると、村人が寄り集まり、一晩を盛大に楽しむ風習が、広く分布していたことがうかがえ

る。

 櫛形町や牧丘町に見る祭りは芸能を現在まで残しているため特に注目を浴びているが、私がこれらの地域を回っている時に近隣においても十四日の夜は「道祖神」の提燈が吊され、火が点され、老若男女が道祖神にお参りする姿が見られ、信仰の深さを感じたものである。私もあちこちの祭りを見ているが、村人こぞってお参りする風景が民間信仰に見られる事例は、そうあるものではなかった。8月、関西方面で行なわれる地蔵盆が、同じように風流な趣を見せていたことを思い出すが山梨県下に見る道祖神の祭りも、同様に親しみを感じた。こういうものは何度見てもよいものである。

 以上思うままに書き綴ってきたが、祭りも含め、道祖神の姿を山梨に追っていきたいと思っている。

 

 

1988.1.14~15 山梨文化財研究所 第1回民俗学シンポジウム資料より引用

 

道祖神の獅子舞⑤

 

 


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