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“どんど火”

2018-04-24 23:14:22 | 民俗学

こんぼった石」より

 平出一治氏は、平成元年1月15日発行の『遙北』76号に、自ら住む地域の松焼き行事について報告をされた。

 

富士見町境葛窪のどんど火 (『遙北』76号 平成元年4月1日発行) 平出一冶

 諏訪那富士見町の旧境村葛窪では、昭和六十三年一月十五日の夜にどんど火が行なわれたが、その歴史は新しく、数十年前に村起こしの一環として復活したものである。

 明治四十三年生まれの父の子供の頃には、すでに廃止されていた事から、この習俗を葛窪でどう呼んでいたかについては不明である。まだ筆者が子供の頃、祖父から葛窪は火災が多かったので、どんど火が廃止されてしまったと聞いた記憶がある。その時、どんど火と言ったのかどんど焼きと言ったのかは覚えていない。ここで、「どんど焼き」ではなく「どんど火」にしたのは、旧境村でこの習俗が続いてきている池袋で「どんど火」と呼び、また、富士見町の中でも「どんど火」と呼ぶ地区があることから「どんど火」と呼ぶことにした。

 どんど火は、円錐形の飾り付けが作られるが、これといった呼び名はない。今年の準備は一月一日に、区の役員が区有林で松の木を切り、どんど火を行なう水田に運んだことに始まり、十五日の午後一時に児童会(五・六年)、生徒会、区の役員、PTA役員が集まり、小雨の降る中を児童会とPTA役員は、正月飾りやだるまを全戸から車で集める。事前に木戸先に出してもらうようにお願いしてあったこともあり、短時間で集めることができた。現地では区の役員と生徒会の人たちが、円錐形の飾り付けを作っている。最後は全員で飾り付けを行ない三時には準備が完了した。

 夜五時三十分前には子供たちが集まりはじめ、円錐形の飾り付けに児童会長と区長の手で火がつけられた。児童たちは、クラッカーを鳴らし、また、火力が強くなると「パアン」「パチパチ」と、青竹と松葉の燃える音が、どんど火のムードを盛りあげていた。

 どんど火と同時に厄払いも行なわれ、厄年の男女が、みかんや菓子などを投げた。それを追う子供たちの歓声でにぎわっていた。火が一段落すると、手にした赤・自・青の繭玉を火にかざし、繭玉焼きがはじまり、楽しい時を過ごしていた。どんど火の歴史は新しいが、ここでもどんど火で焼いた繭玉を食べると、一年間病気をしないと言われていた。繭玉は、どんど火と関係なしに小正月に作られていた。それをどんど火に持ち出すようになったが、葛窪では養蚕農家がなくなってもう久しい、豊量を願った繭玉が依然として作られている。これは繭玉の持つ信仰に違いが生じていることになろうか。現に繭の畳量ではなく、無病息災を願っている。

 葛窪のどんど火は道祖神とは関係なしに行なわれているが、これからも受け継がれていってほしいものである。

 

 「火災が多かったので、どんど火が廃止されてしまった」と言われている。ずいぶん以前に廃止されてしまったため、周囲の「どんど火」に倣って再開されたということなのだろう。もし廃止された理由が火事だったとしたら、あらためて始める際に葛藤はなかったのだろうか。単純に村起こしで始める、とはいかないようにも思う。時代を経たことによってそれは許されたのだろうか。また、廃止されていた間の飾り処理はどうされていたのだろう、などと考えたりする。

 

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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