Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大泉の里 その弐

2008-12-16 12:28:41 | 歴史から学ぶ
 大泉の里 その壱より

 きっと水には苦労したんだろう、という印象を持っていた大泉が実は水の湧き出る地であったというのは、人々がそこに住み着いたということからも予想はついたものの、その後も水が豊富に湧き出でていたかどうかは解らない。もともと集落は東西方向に展開していたというが、春日街道が慶長13年(1608)にできるとここに宿場が置かれ、南北に展開する町に変わったという。おそらく水のことを考えれば南北より東西の方が自然ということになるだろう。湧き水は段丘崖下には出るだろうが、段丘上には出ないはず。とすれば段丘崖が東西に展開しているのだから、自ずと家々も東西に展開することになる。ところが道は南北に通るから、その道に沿って家々は展開し始める。不思議なことに水よりも収益性が高かった交易の町へと変化を遂げたのだろう。

 今でこそどこを見渡しても西天流幹線用水路より下流域は水田、上流域は牧草地を中心とした畑となっている。この西天竜幹線用水路は集落でいくと春日街道より上部を流れている。したがってほぼ集落域を境に、その環境が一変するといってよい。それはまさしく水の無い地は畑、水のある地は水田という形を見せることになる。前回述べたように南は沢尻に、北は延々と集落がないということからも、この一帯は大泉以外の土地はほとんど山(平地林)だったといえる。西天流幹線用水路の設置(昭和3年竣工)に伴って開田事業を行ったというように、そこそこの水田や耕作地はあったかもしれないが、水田の面積はこのとき飛躍的に伸びたのだろう。いずれにしても伏流水が湧き出でる地ではあったものの、ほとんどの集落は天竜川に沿った段丘に平行して展開しているところからみても、それらの地より水の便が良かったということはないだろう。

 『南箕輪村誌』で特筆すべきは、歴史編の第4章にある「水と村の生活」である。いかに水との関わりが強かったかということを示す章立てである。そしてその冒頭は「水を求めて」と始まる。人々の歴史は水を求めることに終始したともいえる。さらにはその「水を求めて」の多くを大泉のことが占めており、やはりこの地が歴史上で常に水を求めてきたことがうかがえる。



 もう少し同書を読んでいこう。農業用水を求めて井堰を設けようとしたのはどこも同じことだろう。しかしここ大泉が「尾泉」だとすれば、この上流域は透水性の高い土地であることが解る。ようは井堰は高いところから低い所に流していくわけだから、この地で水を利用しようとすれば、もっと高いところから水を引いてくることになる。ところがここより高い所が透水性が高い土地とすれば、井堰を設けても漏水してしまうということになる。その通り漏水する井堰との戦いであったことが同書の中で触れられている。元禄12年(1699)に大泉村から出された文書の解説には、「農作物の作付けをするにも、2kmも隔てた南殿や北殿へいって、人馬で汲み上げ、飲み水にし、またこやしごしらえをしている。それで他村で一人作の場所が、大泉では二人でなければ作れない。一一月中ごろから二月中ごろまでの冬期間は、4kmもある井筋が凍上って、水は一切なくなってしまう。そこでまた北殿や南殿までいって汲み上げてきて人馬に給するので、冬かせぎをしたくてもできない」という具合である。田はあっても水がないから畑にするしかないという村は、概して厳しい暮らしをしていたようである。さらに畑にしても「風の害やひでりの害をうけやすい。とくに近年は猪鹿がでて来て大分作物を荒し回り迷惑している」という。今でこそ中央アルプスの麓まで開拓されているが、当時はまだまだ山が多く、いわゆる山付きの村では獣による外が発生したことだろう。そして段丘崖の村々と違って、野原の大泉は風がとても強い。さまざまな面で耕作するには苦労の耐えなかった地といえる。

 続く

 撮影 2008.12.12
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食品偽装

2008-12-15 12:47:34 | つぶやき
 「儲かりさえすればよい」「偽装しなければ競争に生き残れない」。12/14放送されたNHKスペシャルは食品業界のモラルハザードと日本の食糧事情の根本的問題点を指摘してくれるものであった。国内で食品がまかなえない以上、輸入は必然のこととなる。しかしながら中国ギョーザ事件を発端に中国産食品に対しての風当たりはとてつもなく大きいものとなった。下火にはなりつつあるそうした問題であるが、それを消してしまうまでの段階でないことは誰しも理解していることだろうが、殺人事件でも一過性のニュースに過ぎないこの時代において、どれほど国民がこのことに注視しているかは疑問な点も多々ある。食料自給率を上げようというものの、強いてはそこに従事している産業を上向きにしなくてはそれは成し遂げられない。しかし現状はいかがだろう。原材料である農産物にしても畜産にしても、その原点である生産への風は一向に前向きにはならない。今こそ国産で、という声は大きいものの、多様化したニーズと、いまだ余り物を平気で出している国民に対応した食材は、「供給できない」というのが現実である。よくいう「身の丈に応じた暮らし」を原点にすれば、不況の嵐など吹かずともかつてのようにハレの食事は日常ではないという暮らしに戻るはずなのに、札束で平気で日常の食を支えているようでは意識など変わるはずもないのだ。

 生産直結の産業人口が減少し、人が供給するものを横流しして稼ぐ業が栄えるのも、そうした流れの中で変移してきたもので、だからといって将来まで延々と同じ業界が栄える必要などない。少しでも生産を行う人々が増えていくのが今後のあるべき姿と思うのだが、そうした産業が嫌われている傾向があるのは言うまでもない。簡単に言えば材料を自給できない国は、技術が低下するだろうし、身体も退化していくのだろう。教育は頭脳だけが求められる。手先の器用さなど必要ないのである。

 先日、予定では夕飯までに帰宅すると言っていた妻と息子が、遅くなってしまったといってわたしに弁当を買ってきた。たまたま寄ったコンビににこれしかなかったという弁当はスキヤキ弁当である。もともと肉がそれほど好きではないわたしに、妻はうどんを作り夕飯としてくれたが、息子に限らず現代の家庭ではこの両者の選択があったら、多くは弁当を選択するだろう。翌日休日の会社に向かうわたしに妻はその弁当を「持っていったら」と差し出したが、表装の上から中身を眺めて「いらない」とつい本音がでてしまった。値段を見ると550円。コンビニの弁当はけして安いものではないのに、よく売れる。安くないのはそれだけ安全な食材を利用しているのか、それともさまざまな人の手を介していることで高いのかは定かではないが、その背景に多くの働く人の顔がきっとあるのだろう。だからそれを否定するのはその人たちの職を奪うことになると言うのかもしれないが、そんなものは目指すものとは違うはず。「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉が日本にはあるように、こうした連鎖を受け入れている体質があるが、それだからといって低下していく生産人口を当然と言ってはいられないだろう。食のことにいろいろこだわる妻でも、こうして購入品をけっこう利用することがある。わたしだったら主食に安易に出来上がりの弁当を選択することはない。

 番組で気がかりに思った点が2点ある。そのひとつは材料の生産地表示の話である。確かに細かい表示がされていることはありがたいことであるが、そもそもそうした材料を買わなくてはならないところに、既にそうしたリスクがあると思うべき(この考えは異論が多いかな)であって、表示することの労力に金をかける、あるいは提供者の負担にさせるという平気はちょっと方向というか認識がどこか違うのではないだろうか。すべての食材にそうした義務を課すのが適正とは思えない。もうひとつは中国が安くて不評の日本を見切って、他国へ材料を供給し始めたということである。「そんなうるさいやつらに提供しても感謝されないなら別の人たちに売ろう」というものだ。これほど中国頼りの日本にあってこの傾向は気がかりといえるだろう。
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無言の文芸

2008-12-14 13:58:14 | ひとから学ぶ
 今何をするべきか、また何を考えていけば良いのか、なかなかそういうことを考えながら日々を暮らしていくと言うことは難しいことなのだろうか。

 同じ空間で仕事をしていても、率先した行動はなかなか見えなくなった。仕事量がそれほどないというなら、残りも数ヶ月となった今年度を見渡せば、余裕が出てきて当然の時期である。しかし、かつて自ら口に出して「仕事ありませんか」とか「何かやろうか」という言葉はなかなか聞こえなくなった。自らの枠組みの中で、それに分担意識を持っていればそれでよしというのか、それともこの程度の仕事でも多すぎるという状態でアップアップだというのか、きっとどちらにも当てはまるのだろう。「忙しい」という言葉ほど個人の感度である言葉はない。もちろん日本人には本音と表向きは異なるという意識が育まれているから、さらにそれは確実には捉えがたいものになる。

 先日武田鉄也の「今朝の三枚おろし」というラジオ番組で、日本人は言葉に使われることのない唯一の人種であるみたいなことをやっていた。外国人の捉えた言葉の不思議さというやつだが、その例として俳句を取り上げていた。「松島や、ああ松島や、松島や」という俳句は、ただ土地の名前を3回唱えただけなのに、そこから多様に想像することができる。土地の名を3回繰り返しただけでそれができる日本人は、その想像性の豊かさは驚きと言えるだろう。むしろそこから何かを感じられない外国人の方がわたしには不思議に思ったりする。自らを控えて言う言葉は、数えればきりがない。ようはわたしたちには言葉だけでは表せない内面性を持ち合わせているということになる。この内面性は、人との関わりからでないと解ってこないし、関わっていたとしても常に相手の心情を探りながらでないと、本意は見えてこない。職人の世界で、親方は弟子に具体的なことは教えはしない。その技を盗んで一人前になっていく。職人には言葉少なな人が多いのは、俳句を超えた文芸といっても良いかもしれない。風、とか空気、といったものは描くことのできないものであるが、実はそこには重要な日本人のこころが存在していることを忘れてはならない。そうした描くことのできない世界は、職人だけのものではなく、現在の社会の中にも描くことができない分、なにかしらの空気として継続されているはずである。

 そんな空気をわたしは会社の中にも感じてここまでやってきたが、明らかに自分より若い世代は、そうした空気を読めなくなっている。簡単に言えば他人を見ない。見ない以上は他人は解らない。会話の中に奥深い文芸を感じることはない。もちろんわたしは「解らない」人という空気をそこに読んでいるが、きっと相手は無味無臭のようにわたしとの関わりを流していくだろう。こうした蓄積は、わたしの方には累積していくが、相手には何も積まれていかない。せっかく生きているのだから、その時々にいろいろ感じようという気持ちはなさそうである。個人主義といってしまえばそれまでではあるが、それでは日本人の「こころ」は継承されない。

 かつて高校生のころ、大人社会に不満を抱いていた自分は、仲間が同じような世代に「眼をつける」ように大人たちに視線を浴びせていた。「お前らはいったい何を考えているんだ」みたいに無言のやり取りの結果を求めていた。これはわたしの言葉のない文芸だったのかもしれない。けしてそんなまなざしをしていたのはわたしだけではなかった。何かを感じようとしていた時代である。ところがどうだろう、今の高校生たちを見ていると、人へのそんな無言のアピールなどする者はいないし、①勉強をしている者、②携帯を操作している者、③放心したようにイヤホーンの音を聞いている者、この3パターンに集約できる。もちろんそれ以外の者もいるが、人との間で無言の文芸を描くタイプはまずいない。驚くことに車窓の景色を見ている者の少ないこと。とても教えてできる世界のことではないが、多感さのない人々は、いったい「何を今すべきか」ということをどうやって認識していくのだろう。それがなくとも生きられるこの世の中が「ありがたい」ということなのだろうか。
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大泉の里 その壱

2008-12-13 18:59:10 | 歴史から学ぶ
 南箕輪村大泉の集落の南側に大泉川という川が流れている。それほど川幅があるわけではなく、水量も多くはない。何度も振れてきているように、この一帯は扇状地ということもあって、水の便が良くない。多くの表面水は地下へと浸透してしまうのだろう。今でこそ両岸が護岸で固められていているが、この程度の川であるから、かつては小川程度の流れで、人々が寄り添うように暮らしていたのだろう。集落も大泉川の本流からさほど遠くない位置の段丘上に展開している。段丘といっても10メートル余のもので、人々の暮らしの場面から水を汲みに川までやってきてもそれほど遠くはない。とはいうものの、かつての水利用は大変なことだっただろう。集落内を歩くと古い家の庭に縦井戸が残る家が見えた。

 集落を南北に走る道は、江戸初期に造られた春日街道である。後に段丘下の街道へ主たる交易は移ったのだろうが、そう考えても南北に広がる現状の水田地帯はさほど古い時代に開けたものではないはず。水の便の悪かったこの地に集落を構えた当初は、ここに泉が湧いていたとも予想される。集落内を真っ直ぐに南北に走る道は、南は沢尻へ、北は延々と集落はない。沢尻もそうであるが、やはり集落ができるのは川沿いである。水がなくしては暮らしはできない。大泉川のかつての河原の中に現在は家が建つが、これもけして古い時代のものではないだろう。ただ思うのは水の便が悪ければ苦労するのは解ることで、わたしの生家のあたりもそうであったように、水辺に造られた家が、洪水で高台に上ったり、また高台から水辺に家を建てたりを繰り返してきたことだろう。そういう意味では大泉川の造った段丘崖は、湧水が豊富であったのかもしれないし、そうした歴史を繰り返しながら、現在の段丘上に旧家が落ち着いたのかもしれない。

 考えてみればこの「大泉」という名はどこからきたのだろう。大きな泉でもあったのだろうか。それとも大きな泉があれば良いという思いの現れなのだろうか。とそんな具合に何の知識もなくこの地を概観してのわたしの集落の捉え方と大泉のそもそもについて振れた。くまなく足を踏み入れるとともに、こうして考えているうちに、「大泉」について少しばかり本を開いてみることにした。

 『南箕輪村誌』によれば、「古くは「尾泉」とかき「大泉」と改めた」とある。この書き出しで想像できるのは、尾の泉であるから扇状地に伏流した水がここで湧出したというものである。他所同様に「大泉氏」という有力者が住み着いたことによる「大泉」というのが文献上のものであって、大泉氏がいたから「大泉」なのか、もともと「大泉」という地名があって大泉氏が名乗ったかは定かではない。想像できる通りに同書では「大泉川の水がこの辺から伏流するので、尾の泉であるといい、伏流して下流へいって水が出るので、「尾水無(おみなし)川」(帯無川)の下流で水のないのに対して、「尾出水(おいずみ)川」(大泉川)と呼ばれ下流へいって湧水の豊富な川を意味したのである」という説を紹介している。少しばかり意味不明な文脈であるが、天竜川の上流側の同じような支流に帯無川という川がある。こちらが水の無い川だとすれば、大泉川は水のある川と対比できるだろう。したがってここから大泉というところは扇状地にあって水の豊富な稀な地であったと推定できる。

 続く



 撮影 2008.12.10

 南北に走る春日街道の橋の名を「大泉橋」という。この橋はその大泉橋のひとつ下流側の橋で、昭和40年に竣工したものである。橋には「輪道橋」という橋銘板が見え、最初は「わみちばし」とわたしは読んだが、対岸側の銘板に「りんどうばし」とあった。両岸とも水田地帯であって、両岸とも「大泉」である。大泉の人たちにとっての両者を結ぶ幹線的なサクバミチだったのだろうか。中央アルプスの将棋頭を背景に、なかなかの農村の光景である。
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楽観的

2008-12-12 12:38:15 | ひとから学ぶ
 考えてみると不思議なことはたくさんある。食品偽装が陰を潜めてきたこのごろであるが、国内農産物を利用しようとする言葉をその当時はよく耳にしたものだが、陰を潜めるとともに、国内の自給率の話も農業振興に対しての話も、けっこう人ごとの世界に戻ってしまう。そのいっぽうで日々消えていく農業の灯火をみるにつけ、この十年とか二十年の著しい現場の変化を多くの人々は体感していないはずである。それほどの急激な変化が、農業の舞台を諦めの境地に誘ったことは事実である。もちろん活気のある場面や人々を見ることはできるが、ごく一部分といってもよいだろう。いきなり自給率40%という数字が現れたわけではなく、その基礎的な流れはあったことだし、にもかかわらず関係者は工業生産において低賃金国を求めたように他国へ流れていく依存傾向を支えてしまったことは事実のはず。国もそれでよしとしてきたのだから今更何を言うか、という事態である。

 先日も少し触れたが、今は集落営農へ向けて国は補助金を出している。しかし疑心暗鬼な農民は、集落営農の先にある法人化は「無理」と解っていても補助金目当てに「とりあえず」集落営農組織化をしている。そんな状況を見て国は「法人化」という条件をカモフラージュしたようにあまり明確にしていない。絶対「法人化」という条件であったなら、どこでも「組織」みたいに集落営農化しなかったはず。もちろんそれを避けてそうした補助金に手を出していない地域もあって、その対応の仕方には格差があるようだが、これらも行政を司る人たちの考え方ということになる。いかにこの国の人々の暮らしは、国、そして地方行政の人々によって左右されているかがよく解る。そしてその行政は、政権が変わることでさらに左右の振れ方が大きくなることになり、日々追いついていない人々は、ますますその振り子の上でしがみつくことになるのだろう。いっそ自給率などという数字は気にせず、これまで同様何でも国外に求めればよい、と言うのは暴言だろうか。

 食品偽装で死者が出たというほどのことはない。偽装だけではない少し前のBSEもそうだが話題をさらうほどには、被害者は少ない。交通事故や成人病と言われる病での死者の方が、社会問題としては大きい。さらには今後さらに厳しい状況に陥ると思われる介護なども含めて、問題は山積みとされている。報道のせいとは言わないが、にもかかわらず中国への風当たりが強かったように、実際の被害はなくともみな手を出さなくなる。そのくらいなら「絶対悪影響」と言われるタバコを吸わなくなるかといえば、そんなことはない。わたしも添加物の表示を見ながら食品を選択するが、だからといってその内容物で被害を受けていると明確には言えない。その表示に偽装があったとしても「死ぬことはない」程度に捉えれば、タバコを吸うよりも安全と思うこともできる。加えてこの世の中の寂しい限りの現状。自らだけが生き延びたとして、果たしていかなる世の中がそこにあるだろうか。これぞマイナス志向といえるかもしれないが、逆に言えば楽観的といえるかもしれない。健康で長生きしようと思えば、ストレスをためずに、運動をし、安全なモノを食べ、きちんとした生活をする。振り返ってみれば、そうした生活をしている人は稀だろう。ようは生きることの選択など運命的といえるものなのかもしれない。と楽観的に捉えると、ストレスは減少し、いっぽうで怪しいものを口にするということになる。「いってこい」ということでよいように思えてくる。
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「海と里」から③

2008-12-11 19:46:27 | 民俗学
「海と里」から②より

 安室知氏は『日本の民俗1 海と里』のあとがきの中でこんなことを述べている。「海付の村にはあまりゴミが落ちていない。二五年くらい前はじめて民俗調査に訪れたときは、風にさらされる廃屋と捨てられたビニール製の漁具や発泡スチロールの残骸ばかりが目についたが、今見る海付の村はきれいである。かつては村のにおいもどこか魚の腐ったような不快なものに感じたが、今はそんなこはない。見た目が影響しているのだろうか」と。ここに安室氏は、海付の村においてかつてとは異なる住民の意識の変化を見たのだろうか。荒れ果てていた風景に変化が見え始め、それが「海と里①」で触れた「衰退する民俗といったイメージを脱し、新たな民俗学の胎動」の予感につながっているのかもしれない。ただその傾向の背景と現実の問題、そして果たしてそうした変化が何によってもたらされたかというところは、民俗学というよりも社会問題として把握しておかなくてはならないことだろう。

 安室氏は続けて海付の村から次のような印象を口にする。「最近海付の住人と話をしていると、世界経済や地球環境問題への関心が高まっているような気がする。そうしたものへの関心に絡め、地域や村を活性化するにはどうしたらよいかといったことを熱く語る人もいる。(中略)話を聞きに行って、反対に世界経済や地球環境問題にいて教えられて帰ってくるのである」。そして、「今、漁といういとなみを続けるには、世界規模・地球単位の広い視野が求められているのであろう。その意味では都会に暮らす人以上に世界経済や地球環境問題に関しては敏感にならざるを得ないし、語るべきことを多く持っている」と言う。けして海付の村だけのことではない。WTOの行方で大きく左右される農業。そしてそれに振り回されるように方針を変えてきた農政。その行方をなんとなくは読めるものの、農政はそれ以上に右往左往して補助金を期限付きにばらまいてきた。そしてその補助金目当にしていれば、自ずと世界経済や地球環境問題が耳に入り、あたかもかつての農村とは違う空気が流れているように錯覚を覚えた。もちろんそうした意識によって、さらにはこのごろの住民参加型という流れの中で、行政の流れに沿って共同作業を展開してきたことも確かで、表面的にはかなりまとまりある事業が起きてきたという捉え方がされているだろう。しかし、それを見て例えば安室氏の言うような新たな胎動と捉えてしまうのは少し民俗性という面では違うのではないかと思うのだ。野池恒有氏は前掲書第三章「海の行動学」の中で、移住漁民の移動性に触れている。また新興住宅地における民俗の創生についても触れている。新たな住民の中で、あるいは新たな人々が加わることでどう地域が民俗化するのかということについて、確かに興味深いことではあるが、何度も言うように、それが民俗学が求めていくことなのだろうか、といまひとつ素人には理解できないことである。

 今、農村で語られる「環境」が、これら海付の村の知識に匹敵するものかは解らない。しかし、それらを見ている限り、自らの意識でその知識を高めたいと思ったと言うよりは、そうでないと「金を出さないぞ」とばかり国がそれらしいパフォーマンスを見せたためであって、そこに本当の意味で「環境」や「世界情勢」の知識が根付いているとはなかなか言えないような気がするのだ。実体験のなくなった民俗学徒たちが、果たして農村の本音を捉え切れているのかどうかと危惧しているのはわたしだけだろうか。
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兵器「携帯電話」

2008-12-10 12:48:03 | つぶやき
 橋下大阪府知事が府内の公立小中学校への携帯電話の持ち込みを禁じる方針を打ち出したことが話題になった。そもそも携帯電話の持ち込みがなぜ許されていたかである。携帯電話が許されるということは何でも許されるといっても良いと古い人間は印象を持つ。それが小中学生にとって何のメリットがあるかということである。こうした問いに「子どもの居場所が解る」などという回答は世の末期症状の発言としか言いようがない。橋下知事が言うように、いじめや犯罪の危険性が増えるというデメリットは明白であり、犯罪の発生確率の綱引き論のようなものである。犯罪という議論ではなく、子どもたちにとってどうあるべきかという議論ができないこの現実も情けないものではある。

 信濃毎日新聞12/9社説において、このことについて「携帯電話を学校から追放すれば解決するほど、ことは単純ではない」と言い、橋下知事の意見に問題を呈す。そして「問題は携帯電話にあるのではなく、その使い方である。(中略)情報を取捨選択して自分で判断できる「メディア・リテラシー」を学んだり、コミュニケーションの力をつける。いま必要なのはそうした地道な取り組みから、情報社会の中で携帯電話とのつきあい方をみつけていくことだ」と述べる。内閣府のデータを示しているが、昨年の調査では小学生の3割、中学生の6割、高校生にいたってはほぼ全員が携帯を所持しているという。数字だけの問題ではない。単純に周辺が携帯を持っているかいないかによっての数字であって、おそらく学校間格差による割合といえるたろう。

 少し過激な発言になるが、携帯電話をこの時代の悪の根源的な兵器と言ってもよい。駅に着いた電車の窓から向かい側のホームで電車を待つ高校生の手には携帯がある。この機械はほとんど身体を動かさずとも連絡できるツールである。連絡だけではない。テレビも見れれば音楽も聴ける。そして情報端末として世の中を網羅できる。その場にいてそれができるということは、まず人間の身体機能低下につながることは言うまでもない。そして隣に人がいようとその他人を意識することなく、小さな窓の中に意識を集中させる。この機械は人との連絡ツールであって、所持していない人は人間社会からはみ出されることになるのだ。世の中にある程度の見切りをつけた大人たちならともかく、これを子どもたちが持つということは、仲間に入れないということを自覚することになる。所持するということはその程度のことなのだが、その後はそのツールの中身に驚かされるほどのめりこんで行く。所持したと同時に最悪の世界に仲間入りしていくのである。社説の言い分も一理あるものの、すでにその「つきあい方をみつけていく」とか「コミュニケーションの力をつける」といった教育レベルの状態ではないのである。携帯を所持した子どもたちは、ほとんど携帯を電話としては利用しない。メール機能とウェブ機能、そんな利用が主である。本来であるならばPCといったものでできるものを携帯というもののなかに凝縮している。あまりの小ささに、何をしているか注視しない以上このツールは表向きは「携帯」であるが人の心をもてあそぶ兵器なのである。

 公立学校が禁止を打ち出さないことを公平性などという言葉で説明して欲しくない。公がそれほど自由を認めているとは思えない行動がたくさんある。むしろ「携帯禁止」を看板にした学校が出てきて当然ではないかと思っている(もちろんそういう学校もあるというが、現実的に公立学校は生易しいようだ)。例えが正しいとも思わないが、原子爆弾禁止を訴えるにもそれが達成できない社会という図式にも少しばかり似ている主張かもしれないが、実はそれに匹敵するほどこの兵器は人々を蝕んでいるとわたしは思っている。タバコや酒のように年齢制限を持たせてもおかしくない機械である。
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あるパーツの24時間労働

2008-12-09 12:18:45 | ひとから学ぶ
 「そんなんでいいの」という光景を見ることは珍しくはないが、それも必要とされるのならしかたないということになる。ただそんな光景を目にするたびに、わたしたちはみずからが自らの住む社会の不自然に気がつくことなく、「責任」という名の下に小さくなっていく姿をそこから見出すのである。

 ここ数日、わたしが毎日利用している駅に隣接する踏切の工事をしている。夜間は工事をしていないようだが、踏切ということはそこを利用する車がやってくるからそれらの車の誘導のために夜間も交通誘導員が立つ。昨夜帰宅の際はよく見えはしなかったが、今朝通ると女性の誘導因果挨拶をしてくれる。踏切の向こう側にも1人立っているから、この工事での誘導員は常時2人ということだろう。ふと頭に浮かんだのは「まさか夜中中立っていたのでは」ということである。まさかとは思ったものの「夜中ぢゅう立っていたんじゃないですよね」と聞くと「10日までは24時間ずっと」だという。「まさか」と思ったことは、そのまさかだったのである。実はこの踏切は町道であり、国県道ではない。そこそこ通行量はあり、大型車も通ることは確かだ。しかし、誘導看板を立てておけばそれほど迷うこともないし、通行止ということは見れば解る。にもかかわらずこの人たちは夜中ぢゅう立っているのである。

 そういえば以前にも一度触れたことがあるのかもしれないが、交通誘導員が実はけっこうちまたの夜中に立っているということは、意外に一般人は意識していないかもしれない。夜中も工事をしているというのならともかくとして、まったくの人気のない山間の道でも、夜中に時折こうした誘導員が立っていて驚くことがある。幹線国道の片側通行であっても昔なら信号機だけで済んでいたものが、今はだいたい誘導員が立つ。「必要なの」と問うとすれば、「事故があったらどうする」という返答になるのだろうが、実際こうした人たちと雇用側とどういう契約がされているかは知らない。ただし事故があったとしても例えば誰もいない空間に立っている誘導員には事故の連絡をするくらいしかできない。携帯が汎用化している現在においては、連絡は事故当事者たちでも十分できることである。思いたくはないが、もしもの時に雇用側はその責任を誘導員たちに課すことができるということである。そういう責任の所在を考慮すると、交通誘導員などというものは「安いもの」ということになる。工事を発注している側がそれを条件としているのだろうが、こうしたかつてにはなかった光景を簡単に「安全」視点として片付けてしまうには、どこか納得のいかないものなのである。そして事故だけでなくそれだけ人々の行動が予測できないほど不自然なものが多くなっているということも証明することになる。監視していないと何が起きるか解らない、そして起きた時には管理責任が問われる。完璧な言い訳を構築するためにも無駄と思われる措置が、世の中に増え続けていくのである。もちろんそこにかろうじて雇用を求めざるを得ない人たちがいることも忘れてはいけないのだろうが、そこまでしないと人の行動に秩序が持てないということは、重大な構造欠陥と言わざるを得ない。それぞれ分業化されたパーツがそれぞれの責任のもと、誘導をしないと社会が構築できない。まさに人の心の中もそうした傾向になりつつある。
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農業農村の憂鬱

2008-12-08 19:44:47 | 農村環境
 乱立する農産物直売所が国内農業を疲弊させているのではないかという内容を扱った「「安さ」の落とし穴」(『生活と自治』12月号/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)という記事は、本質を見抜いている記事といえるだろう。直売所は全国に1万3千箇所ほどあるという。年間数十億という売り上げを上げる巨大直売所もあると言うが、農家の売り上げにしてみれば50万から100万程度がほとんどだという。そうした直売所で売られる農産物は、スーパーなどで売られているものより安い。なせ安いかといえば、それら直売所へ降ろしている農家は、それだけで生業を立てているわけではなく、たとえば息子たちが稼いでくるから、とか自ら別の収入がある、さらにはすでに年金生活だからそこまで稼がなくてよい、という農家の環境がある。「趣味」とまでは言わないが、余力、あるいは小遣い稼ぎという感覚があるからスーパーで売られている農産物とは背景が異なる。現在の農業はこうした多様な農家の環境をいっしょくたにして語られている。たとえば直売所にいるおばさんたちやおじさんたちの生業としての背景がどうであれ、「活性化している」というイメージでそれらは評価されている。もちろんそうした人たちばかりというわけではないが、農家が高齢化しているということは、将来はともかくとしてとりあえず自分たちが生きていければよい、という感覚になる。たとえは悪いが、学校のクラスに真剣に勉強をしようとしている子どもたちと、足を引っ張る生徒が共存しているようなものかもしれない。それでいて足を引っ張る生徒たちがまったくダメなら一生懸命やっている子どもたちも納得いくが、足を引っ張る子どもたちがそこそこ勉強ができたりするとなかなか心理状態は複雑である。

 農家の間でこうした現実を例にとって文句を言う人たちはいないかもしれないが、もし趣味的に農産物を売っている直売所に客が取られてしまう、あるいは農産物価格に影響を与える、などということがあればますます高齢者産業に陥ることになるだろう。いわゆる専業で農業を行っている農家は、ますますその販路の開拓なり、規模拡大を進めなくてはならなくなり、農家というひとくくりの中に大きな差が生じてくることになる。こうして農家が変わり、そして農家が住む地域も変わってきたといえよう。その現実を見る限り、そこへ若い人たちが入り込んでくるというのもなかなか勇気のいることであるし、子どもたちに農業をやらせようなどという人もいなくなる。かつてもそうであったが、現在専業で農業をやっている人たちが、子どもに農業を継いでもらおうなどと思っている人は稀だろう。

 自由競争という市場である以上、直売所が安く売るのは勝手のことである。しかし、農村で営まれているこの生業は、企業の競争とは違う。企業には地域が介在しないし、人々の暮らしも介在しない。もしそれがあっても、企業が破綻するという時にはそんなことは一切無関係である。ところが農業は人々と大きく関連してくる。これほど農家が減少しても、農業は人々の暮らしに関わり、まったく無縁というわけにはいかない。その良い例が先日も触れた「水路」である。もし大規模担い手にすべての農業がゆだねられたとしても、農業用水路は人々の暮らしの中を流れている。そしてその水路に人々は住みかの排水を流している。農業という企業がもしこれを担ったとすれば、たとえば大事業所が造成される時のようにその関連施設をすべてその事業所が管理し、さらには水田の排水を住民に迷惑をかけないように処理しろなんていうことになったら、農業の継続は不可能である。ようはどれほど集約されようと、そこに住処を持っている人たちは農業と「無縁」とはいかないのである。とすればまったく違う環境の農業を営む人たちを同じように見るのは、将来に問題を残すことになりはしないだろうか。

 「地元の農産物が安く手に入って困るという人はいないだろう。だが、その安さが日本の農業の土台を危うくしていること。そして、農業の自立があってこそ地産地消が成り立つことを、農家も消費者も知る時が来ている。農家の自己主張と消費者の理解のない地産地消は長続きしないといえるだろう」と記事ではまとめている。直売所に農産物を供給している農家がなくなれば、いずれはこの結論に達することになるのだろう。ようは趣味的な農業=自立農業ではないということなのだ。
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「美しい」は使わない

2008-12-07 17:41:16 | 農村環境
 美しいという表現はあまりしたことがない。言葉そのものの形容が高貴すぎて使えないというのが印象である。例えば美しい紅葉に出会ったとしよう。この場合「きれい」という言い回しをして「美しい」という言葉は利用してこなかった。きっとこの言葉は、かなり人に意識的に表現しようとするものであると思う。

 先日ある集落の中を仕事で歩いていると、おばさんが「何をしているの」と言葉をかけてきた。自宅の脇の水路を調べていたから気になったのだろう。おばさんに内容を説明したあと、こう言うのだ。「ここの水路をこんなふうにしてしっまったから蓋が開けられなくてどうにもならない」と。集落内の上流で物を流す人がいるようで、以前ならそれらを取り除くことができたが、今ではそれができないというのだ。先ごろも蓋をかけてしまった水路のことについて触れたが、メリットとデメリットが現れる共同施設であることは確かである。今回の蓋の架かった部分はほんの10メートルほどの区間なのだが、おばさんの自宅の上で直角に曲がっているというのがネックで、ようはゴミが詰まりやすいということになる。とくに周辺の人たちに相談したわけでもなく、集落の一部の人たちの要望でその部分が暗渠化されたのだろうが、この方が道が広くなるし、空間も広がる。集落内ということもあるから安全という面も高まる。その方が誰もが認める良策と思ってのことなのだろうが、それはゴミを流さないというのが前提となる。もちろんモラルからいけばゴミを流す方に問題ありということになるだろうが、このあたりがなかなかすっきりしない人模様となる。

 ゴミがを捨てるとか流す行為は、モラルが低下したから始まったものではない。もちろんかつての「使い川」の時代にはもっと多様な掟があったのだろうが、一部分だけが継承されていてそれが現在に照らし合わせればモラル低下という見方をされることになる。このあたり、する方の言い分というものもあるのかもしれない。農村では例えば環境美化という面にはまったくそぐわない行為がたくさん行われてきた。しかし、どちらかというと循環思想が意識せずとも機能していたもので、必ずしも美しさを求めたという行動ではなかったかもしれない。それでもかつての農家の庭先は見事に清掃され、田んぼの土手も今のような機械刈りの美しさはなくとも整然と手が入れられてきた。何がそうさせたかといえば、それぞれに意味があったはずで、美化という目的が前面に押し出されたものではなかったはずである。ところが現在は「農村は美しい」という農村志向派の気を引く言葉に引かれて、そんな看板に地域のイメージが偶像化されているようだ。自らを「美しい」と象徴して売りにするのはどこか価値観の歪を感じる。以前にも触れたが、やはり切り取られた美しさが減少することでよりいっそうそれを意識していくのは仕方ないことだが、多様な場面にそれは存在するのではないだろうか。

 かつてどこにでも当たり前のように存在した今で言うところの「美しさ」、それはけして今も一部分だけに見られるものではないとわたしは思う。以前童画家で写真家の熊谷元一さんの写真集の1枚1枚のキャプションのコメントをして欲しいと依頼されたことがあった。最終的にはキャプションはご本人がされて、わたしはおこがましいことであったが、解説ということで文を書かせていただいた。膨大なベタ焼きされた写真に触れて、熊谷さんの写真には子どもたちの、また農村の人々のいわゆる「美しい」表情が蓄積されていた。なぜこの時代の子どもたちは、また人々はこれほど豊かな表情ができたのか、またその表情を屈託もなくカメラに向けることができたのか、などと思うとともに、きっと現在もそんな「美しさ」があるはずなのにわたしたちは気がついていないのではないだろうか、と感じたわけである。人々は自ら美しいと言ってそんな表情を見せたわけではないだろう。同じことがわたしたちの舞台にも言えるはず。自分たちの変わらぬ暮らしから自分たちの価値は何かを認識し、「美しい」などという漠然とした高貴な言葉でわたしたちをアピールするのではなく、変わらぬ日々の中から変わらぬ表現の切り取りををして言葉を捜したいものである。
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「海と里」から②

2008-12-06 12:02:45 | 民俗学
「海と里」から①より

 「海と里」(『日本の民俗1』2008/11吉川弘文館)というテーマからしてわたしには縁遠いもので、「共感」できるものが少なくなる。山の中に暮らしているのだかに仕方のないことであるが、そういう面では安室知氏が述べている「海付の村」は、山が海に接近しているということで、少なからず海以外の部分は山間と似通ったものを感じる。いずれにしても縁遠いこともあり、文脈の中で「これは」と思う部分だけを少し拾いあげてみることにする。

 室知氏は「海付の村に生きる」の中で横須賀市佐島の漁師たちの方向意識について、「ヤマが見えない沖まで出ることは不安であった。 ヤマが見えなくなると、シオがどちらに流れているかが分からなくなり、方向を失いやすいたである」と紹介している。海の向こう、沖のさらに先をデーナンまたはデーナンパラといい、この意味は「大難」を意味するという。ようはヤマが見えなくなるような沖の先は、大きな難に会うということになる。ここでいうヤマとは三浦半島台地の傾斜地を言い、それは畑や山林で、その奥は三浦半島最高峰の大楠山に続く。ようは海付のムラは背後にあるヤマを目標物にして漁を行うわけで、これは山村に住む者と意識に近いものがあると感じる。もちろん安全な漁を行うための目標物と、命までは奪われないふだんの暮らしの方向認識のためのヤマはそこに大きな違いがあるかもしれないが、いずれにしても山の位置を確認しながら暮らすのは、山の中に暮らすものばりではなく、海辺においてもそれは意識されているということに親近感を覚えるわけである。

 いっぽう小島孝夫氏は「離島の暮らしと変容」において御蔵島の変容の姿を紹介している。御蔵島は三宅島の南にある島で、現在はイルカウォッチング観光で賑わっているという。認識していなかったが驚くことに海に浮かぶ島なのに漁業で外貨を得ていた村ではない。その理由は急峻な地形のため、海に落ち込んだ陸はそのまま水深が深いところまで続く岩石海岸のため、港湾を建設することができなかったことによるという。したがって農業も水産業も島内の自給的なものだったという。むしろ島の大半を占める山林による生業に頼ったというのだ。そのあたりからしてそれほど裕福な暮らしはできないという印象を受ける。島は二十八軒衆といわれる島内に古くから住む人々によって成立していて、それらの人々も人口100人という制約を理解していて、結婚できるのは長男のみという掟があったという。限られた空間とはむやみに人口を増やすことができない。食い扶持がなければ共倒れということになる。同様の掟はこうした島にだけあったものではなく、農山村でもかつては言われたことである。「分家は出せない」という理由が、出しても耕作地が目減りしていく本家も、いずれは食えなくなるということで、長男以外はよそへ出て行ったり、あるいは職人となったのである。

 得られるものが限られるとなれば、御蔵島のように「島の財産や資源は島民みんなのもの」という考え方になる。いわゆる共同体ということになり、「珍しいものが手に入ると、島中に配らなければとするような気風があった」と言う。しかし、現在では島外からやってきて居住する人が増え、その意識はあっても例えば8割以上の子どもが島外出身者の子どもという状況では、共同という行動そのものが無意味なものになりかねない。そうした実態の中にイルカウォッチングという観光が入り込み、さらなるかつての意識の持ちようが難しいものとなりつつあると察知する。「イルカウォッチングについては、一部の海面利用者に消費の共同性ともいうべきものが委ねられているはずであるが、そうした自覚や覚悟について、当事者を含めて島民全体でのコンセンサスが形成される段階まではいたっていないようである」と小島氏は言う。これもまた農山村にもありうる事例といえるだろう。

 また「かつて島での学校教育は、島で生まれ育ったことをコンプレックスとして植えつけてしまうような側面があった。島の良さを自覚することよりも、島で暮らすことの不利を自覚することになった」という。同じことが過疎の地域では実行してきたといえる。教育はそれぞれの将来を明るくするものであっただろうに、実はそこへ力を入れた親たちは暗い事実に直面することになる。

 このように島の生活からも同じような課題を見出し、またそれがどう今後変容していくか、見つめ続けなくてはならない。

 続く
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「女」たちの建てた「水神社」

2008-12-05 12:33:10 | 歴史から学ぶ


 別の日記の「古の理容店」で南箕輪村大泉の集落内の裏道にあった理容店について触れた。脇を用水路が流れていて、現在はこの用水路の源は天竜川である。昔なら天竜川の水がここへ流れてくることはなかったが、西天流幹線用水路が開設された昭和3年以降は、かつては想像もできなかった水が、ここまで流れてくることになった。もちろんそれまで水が一滴も来なかったわけではなく、木曽山脈から流れて来る水がきっとかろうじて程度なのかもしれないが流れていたものだろう。この地域は扇状地上に展開しているため、水は伏流してしまい、水の便が悪かったという。窪に流れている河川にも、豊富な水が流れているという印象はなく、もぐりこんだ水は遥か東にある段丘崖にまで至って、ようやくその姿を見せていたようで、現在でも段丘崖の山林の中にそれらの水を利用したわさび畑があちこちで見ることができる。

 この理容店の脇の水路、少しばかり南へ下るとその傍に写真のような石碑が立っていることに翌日気がついた。碑面には「明治四十一年 大願成就 奉納水神社 九月吉日 丑年女」と刻まれている。明治41年というと西天流幹線用水路の造成の話はあったかもしれないが、まだその施設はなかった。その時代に建てられたこの石碑は大変興味深い碑といえる。現在ここに祠があるわけでもなく、なんら特別な空間を醸し出しているわけでもない。脇の水路は幅にして一尺弱、現在はコンクリートの二次製品で整備されている。理容店の前まで流れてきた用水路は、そこから方向を変えて水田地帯に下りていく。道沿いに流れる用水路は、どうみてもそれほど利用価値の高い用水路ではない。その用水路の傍ら、それも個人の家の裏口のようなところに、女が建てた碑があるということがとても興味をひくのである。

 かつて水道のなかった時代においては、日常の水をどう確保するかというのは日々の労力という面では比重が高かった。煮炊きの水はもちろんのこと、風呂の水にしてもその大量な水を用意するのが一苦労だったという話は昔の人たちから当然のごとく聞くことができる。井戸水が確保できればよいが、この扇状地においては井戸を造ることさえ容易ではなかったということは、以前に「「マンボ」とは言うけれど」で触れた通りである。するとこの集落の人たちはどう水を確保していたのか。もちろん農業用水として導水された以降の天竜川の水が、こうした日常の用水としてはそれほど利用されたかだろう。ということは西天流幹線用水路が開設されたからといって、それまでの生活上の水の苦労が解消されたとは言いがたい。

 この石碑の建立者が「女」であるということ、ようはふだんの暮らしの水に苦労していた女たちが、この脇を流れる水路に何を託して建てたものなのか、あるいは水路が今でこそそこに流れているが、当時このあたりに井戸でもあったものなのか、その答えをまた確認してみたいものである。
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ネガの世界

2008-12-04 12:37:12 | ひとから学ぶ
 ネガとポジの話から始まったわたしの捉える人の性格は、このところ自らのありようや、家族内の出来事などからグッドタイミングとばかりに自らを問うことになった。果たして人をどう捉えるか、というところに落ち着くが、会話のないこの時代は、まったく予想できないような人間模様に遭遇し、内面的な表現でこれらの言葉を使うことにより、ますます自らをネガの世界に引きずりこんでしまうことにもなる。

 消極的とか控えめとか、何につけてもマイナス面の言葉を発したりする自分はきっとこれらの表現で言えばネガティブな人間ということになるだろうか。ところが、わたしの行動はどちらかというとそれらを認識した上で積極的な面が多い。会社で人事評価の視点をどこにおくかという委員会を設置した際に、「わたしは人事評価が適正に行われる可能性が低いことと、この程度の会社にそれが必要なのか、そしてなぜそれを仲間内の社員が検討するのか」という捉え方で出席を拒否した。これはまさにネガティブということになる。しかし、あえて言うならその行動そのものは積極的な否定であって、それを実行する自分は、きっと内部告発をするタイプの人間だと思う。もちろん悪行を働いているような会社ではなく、告発するようなものも見当たらないが、ことお客さんに対しての意識については「それで良いの」ということを何度も同僚たちに言葉で発してきた。何度言っても解らないやつらは解らず、このごろはまさにネガティブ、ようは「言っても無駄」という消極的な諦めに変わってはいるが、自らの中では絶えずそうした意識を持って仕事に向かっている。このケースで、騙してでも収益を上げようと思う行動をポジティブと見るか、正直に実勢価格で提供する行動をネガティブと見るか、意見は分かれるところだろう。

 わたしのように「こんなくらいで良いんじゃない」と楽観的に商品を作り上げたとしよう。それに対して商品に付加価値を付けるのなら「もっと理論武装した基準に照合したものでなければならない」という人もいる。「基準て何、この商品に必ずしもその視点が必要なの」と言うと、きっとネガティブな志向と捉えられがちだが、「そうではないだろう。それならお客さんに何を提供するかもっと詳細な仕様を示すべきだろう」とわたしは考える。ようはお客さんに対してはかなり積極的な意思の尊重をはかっている。人の視点が織り交ざる業務に対しては、どうしても分かれる意見が多発する。それをどう捉えるかというとき、「指摘があったから」といって気にして武装するのは、むしろ消極的であって、楽観的であっても商品に対するポリシーが示せるのなら、それは積極的な態度と思う。

 そう捉えてくると、積極的と見られる例えば研修とか会議を開いても、そこで何も作り上げられないというのなら、むしろ積極的否定があって当然なのだ。もちろんわたしがその会社のリーダー的立場であったなら、想像にたやすいそんな無駄な行動に疑問を投げるとともに、「成果は何か」をもっと突き詰めるはずである。ふだんそれができていない会社が、積極的と見える会議を催しても、想像の通りの結果となる。

 昨日のテレビドラマ「相棒」はまさにそんな世界を描いたもので、たいへん意味深な楽しみを味わえた。被疑者に対する取調べにおいて警察官が暴力をふるい、被疑者が死亡した。取調べを監督する身内の警察官は、その事態を隠し、さらには警察トップも被疑者の死亡理由作りに奔走する。しかし、杉下右京は「警察官であることとは何か、権力を持つ者とは何か」と問う。間違ったものを指摘できる勇気をポジティブだと捉えられる世の中でありたいが、現実はむしろ楽観視された言い訳作りに走る。場面は裏腹であるポジとネガをいったりきたりする。人の評価も同様で、むしろ基本的な本音だけ一つを指標として、あとの指標はそれほど重視しなくてもよい、程度のもののはず。そしてわが社において本音の指標は簡単に調べることができる。ようは稼ぎ金額である。稼がない人間が評価されるべき指標は何か、ととらえて補正していけば、それほど間違ったものはできないはず。そんな程度のことを議論していこうという積極さは、「相棒」でいうところの組織防御のための嘘となり、結論的に消極的なものになってしまうのである。

 何を求めていくか、その先に照射して、わたしたちはネガの世界も必ず見ていなくてはならないのである。
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正確には理解しがたい

2008-12-03 12:29:26 | ひとから学ぶ
 ネガとポジという言葉(前者)もイメージできないものになりつつある。わたしにとってみればこの言葉は写真用語という印象がある。しかしデジタルカメラ時代に至ってはネガを手にする人も極端にいなくなっただろう。強いては「ネガとは何」ということになる。両者を使った言葉としてはネガティブとポジティブという言葉(後者)がある。この言葉を略してネガとポジとしているというが、写真で使うときは略語しか使わなかった。ところが後者の正式な言葉をよく耳にするようになったのはそう古いことではない。もちろんそれは写真用語として使われるのではなく、心理的な物言いとして使われるようになった。ネガやポジという言葉は具体的にモノを示すものとして存在していたわけで、そこに現れた後者の言葉の意味は前者をイメージして想像すると、その意味を解くのもたやすかったが、前者がマイナーなものになれば、後者を前者のイメージから想像することはなくなるというわけだ。

 ネガは現像してできた明暗や色相が実物と反対のフィルムをいい、逆にポジは肉眼で見た被写体と同じ明暗や色相で写っている画像をいう。正式名称の知識などなくこの両者からネガティブとポジティブの心理的な物言いを想像すれば、実物とは反対の世界を闇とか裏、実物と同一の世界を明とか表という捉え方ができるだろう。そこからネガティブをマイナス傾向の暗いもの、ポジティブをプラス傾向の明るいものと捉えられる。後者の言葉はこのように写真のネガとポジという単語から想像するとたいへん解り易いものとなる。

 しかしである。後者の言葉を想像する際には解り易い例なのだが、例えばポジティブの意味を調べてみると、「積極的であるさま」。ネガティブは「否定的なさま。消極的」である。ここへ至ると写真のネガとポジのような明確なモノとは異なってくる。ようは曖昧な意味も生じてきて、理解しがたいとまではいかなくても正確な理解には達しない。ポジティブには「楽観的」という意味もあるようだ。

 先日「人口減少は止まる」においてコメントしようとした際、本文にあるこのネガティブとポジティブがわたしの意識しているものと違ってはいけないと思い、ポジティブを「前向き」、ネガティブを「後ろ向き」のような表現で使い、横文字の言葉を利用しなかった。例えば「ポジティブな将来の夢」と言われると、意図が多様化するような気がしたからだ。これをわたしが使った「前向きな」と読み替えると、だいぶ限定された物言いとなる。このあたりのニュアンスがなかなかわたしには理解が難しいのである。横文字が不得手ということになるだろうか。世の中にはカタカナ語がたくさん出回っている。そうした言葉を使いこなす方たちをみていると「格好いい」と思うのだが、わたしには真似のてきない世界である。どうしても納得して使いこなせないわけだ。

 写真用語としてネガとポジという具体的にイメージできているものであってもこうなのだから、モノとして理解できない言葉にはさらに難しさが伴う。「本当にそういう意味なの」と日本語で聞きなおさないと間違って捉えてしまいそう。こんなわたしの性格ではとても外国語で相手を理解するなどということはできないのかもしれない。「雰囲気」程度の世界、いわゆる挨拶程度がせいぜいなのだろう。
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郷土史の低迷

2008-12-02 12:25:57 | 歴史から学ぶ
 『伊那』(伊那史学会)12月号が送られてきた。わざわざ「送られて」きたことに注目するのは、実は先ごろ会員名簿を見せて欲しいと依頼したところ、個人情報保護の主旨で見せられないと言われた。予測されたことだったので、あらかじめ「名前と市町村名だけでけっこうです。またそちらに出向いてそこで見せていただくのでもけっこうです」という依頼をしたのだが、それも芳しい返事をいただけなかった(わたしは会員)。この場合の個人情報とは何かということになる。名前と市町村名だけとなれば、伊那史学会の会員であるという情報が個人情報ということになるのだろうか。その二つだけにしてリスト化するのが簡単にできないというのが芳しくない答えの理由だったようだが、「出向きます」という依頼に対しても他の理由で良い返事がもらえなかった。結局、名前と市町村名だけ書かれた会員動向のノートがあって、それを見せていただけることになったわけであるが、そこでわたしの名前を確認すると、うる覚えではあるが同じ町の他の会員とは少し異なったメモがされていた。それは「直接」というようなメモで、そこで気がついたのは、「直接郵送している会員」という意味ではないかということであった。実は直接事務局で見せていただいたわけではなく、ある「博物館に置いておくからそこで閲覧してほしい」と言われて見せてもらったため、それを確認することはできなかった。そのあたりが理由か、あるいは会員になったのが本人申請、いわゆる「直接」だったためだろうか。さらに入会後に何度か住所を変更していることもその背景にありそうだ。

 いずれにしても同じ町の他の会員には「担当者」がいるが、わたしにはいないのである。担当者は発行された雑誌を届ける人を言うのかどうかは知らないが、そういうことをしないと、なかなか安い会費で毎月発行していくのは厳しい。もちろんわたしが郵送を希望しているわけではないのだが…。

 ところで来年度から年会費を500円上げるという。わたしもいくつかの会に入会しているが、ここ10年ほど会費が上がった会はなかった。そんななかでの久しぶりに聞く「会費値上げ」という言葉。毎月発行してゆくのは大変なことで、全国でも稀な存在である。話によると毎月発行している郷土史関係雑誌は4誌しかないという。そのうちの2誌が『伊那』と『伊那路』(上伊那郷土研究会)という伊那谷で発行されているもの。もう一つ長野県内には『信濃』(信濃史学会)というものがあり、長野県内で3誌を占める。会費は『伊那』が5500円、『伊那路』が5000円、『信濃』は8400円である。雑誌の平均的ページ数は『伊那』が50ページ、『伊那路』が40ページ、『信濃』が80ページである。文字の大きさが異なるため字数にも差はあるが、1ページ当りの金額を割り出すと、『伊那』が9.2円、『伊那路』が10.4円、『信濃』が8.8円となる。お得な順でいくと『信濃』『伊那』『伊那路』となる。それぞれ運営の仕方は異なるが、ちなみに同じ理由で上伊那郷土研究会に名簿を見せて欲しいと依頼したところ、会長さんから数人の委員と協議をしたところやはり閲覧しに来て欲しいと連絡があった。こちらは委員制で会を執行しているようだったが、伊那史学会は初代原田島村さんが展開して大きくなった会だけに事務局の力が大きかった。それは今も同じように運営されているようだが、実は会員数の減少率はきっと他の会よりもかなり高いだろう。かつて五千部を刷っていたという『伊那』も今では40%以下のようだ。この10年余で半減しているというのだから、過疎化の著しい村の人口減少率以上である。減少するのは仕方ないにしても、運営の方式を変えないとなかなか傾向は変わらないのではないだろうか。飯田下伊那のすごいのは、本体の伊那史学会ではなく、地域ごとに存在している史学会が基層にあることだ。しかし、高齢化していく組織は、逆にこうした傾向に歯止めをかけようと言うときに働けないものだ。まだまだ『伊那路』の会員に比べれば倍以上の会員を有すこの会の先行きは、郷土史の将来の姿を映すことにもなるだろう。しかし、あまりに定着しすぎた執行部はなかなか動けないことも事実で、そのあたりを認識していればよいが…、というのがわたしの抱く心配なのである。

 ちなみに思いついて『伊那』を検索したら、飯田市立図書館に掲載論文の検索ページがあった。けっこうこういうページはありがたい。
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