Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大泉の里 その壱

2008-12-13 18:59:10 | 歴史から学ぶ
 南箕輪村大泉の集落の南側に大泉川という川が流れている。それほど川幅があるわけではなく、水量も多くはない。何度も振れてきているように、この一帯は扇状地ということもあって、水の便が良くない。多くの表面水は地下へと浸透してしまうのだろう。今でこそ両岸が護岸で固められていているが、この程度の川であるから、かつては小川程度の流れで、人々が寄り添うように暮らしていたのだろう。集落も大泉川の本流からさほど遠くない位置の段丘上に展開している。段丘といっても10メートル余のもので、人々の暮らしの場面から水を汲みに川までやってきてもそれほど遠くはない。とはいうものの、かつての水利用は大変なことだっただろう。集落内を歩くと古い家の庭に縦井戸が残る家が見えた。

 集落を南北に走る道は、江戸初期に造られた春日街道である。後に段丘下の街道へ主たる交易は移ったのだろうが、そう考えても南北に広がる現状の水田地帯はさほど古い時代に開けたものではないはず。水の便の悪かったこの地に集落を構えた当初は、ここに泉が湧いていたとも予想される。集落内を真っ直ぐに南北に走る道は、南は沢尻へ、北は延々と集落はない。沢尻もそうであるが、やはり集落ができるのは川沿いである。水がなくしては暮らしはできない。大泉川のかつての河原の中に現在は家が建つが、これもけして古い時代のものではないだろう。ただ思うのは水の便が悪ければ苦労するのは解ることで、わたしの生家のあたりもそうであったように、水辺に造られた家が、洪水で高台に上ったり、また高台から水辺に家を建てたりを繰り返してきたことだろう。そういう意味では大泉川の造った段丘崖は、湧水が豊富であったのかもしれないし、そうした歴史を繰り返しながら、現在の段丘上に旧家が落ち着いたのかもしれない。

 考えてみればこの「大泉」という名はどこからきたのだろう。大きな泉でもあったのだろうか。それとも大きな泉があれば良いという思いの現れなのだろうか。とそんな具合に何の知識もなくこの地を概観してのわたしの集落の捉え方と大泉のそもそもについて振れた。くまなく足を踏み入れるとともに、こうして考えているうちに、「大泉」について少しばかり本を開いてみることにした。

 『南箕輪村誌』によれば、「古くは「尾泉」とかき「大泉」と改めた」とある。この書き出しで想像できるのは、尾の泉であるから扇状地に伏流した水がここで湧出したというものである。他所同様に「大泉氏」という有力者が住み着いたことによる「大泉」というのが文献上のものであって、大泉氏がいたから「大泉」なのか、もともと「大泉」という地名があって大泉氏が名乗ったかは定かではない。想像できる通りに同書では「大泉川の水がこの辺から伏流するので、尾の泉であるといい、伏流して下流へいって水が出るので、「尾水無(おみなし)川」(帯無川)の下流で水のないのに対して、「尾出水(おいずみ)川」(大泉川)と呼ばれ下流へいって湧水の豊富な川を意味したのである」という説を紹介している。少しばかり意味不明な文脈であるが、天竜川の上流側の同じような支流に帯無川という川がある。こちらが水の無い川だとすれば、大泉川は水のある川と対比できるだろう。したがってここから大泉というところは扇状地にあって水の豊富な稀な地であったと推定できる。

 続く



 撮影 2008.12.10

 南北に走る春日街道の橋の名を「大泉橋」という。この橋はその大泉橋のひとつ下流側の橋で、昭和40年に竣工したものである。橋には「輪道橋」という橋銘板が見え、最初は「わみちばし」とわたしは読んだが、対岸側の銘板に「りんどうばし」とあった。両岸とも水田地帯であって、両岸とも「大泉」である。大泉の人たちにとっての両者を結ぶ幹線的なサクバミチだったのだろうか。中央アルプスの将棋頭を背景に、なかなかの農村の光景である。
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