Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小宇宙の行方①

2008-12-26 12:30:10 | 民俗学
 『日本の民俗 2山と川』(2008/12吉川弘文館)は、「山や里や川のそれぞれの環境に即した暮らしの独自な姿と、それぞれの地域の環境差を超えたところに成立する人や物の交流の大切さと重さとを描いて」(湯川洋司氏のあとがき)いる。そこで著者の一人福澤昭司氏は、それらの空間を小宇宙としてそれぞれが関連した空間として捉え、その空間がグローバル化の中で変化を遂げてしまっている姿を描き、その行方を展望している。いや、テーマとしている山と川という関係を超え、ひとかたまりの小宇宙の役割分担の均一化による現代の地域社会の根本的な問題に触れているといってよいかもしれない。これは常日頃わたしが捉えようとしている「伊那谷の南北」といった地域性の問題にもかかわるものであり、福澤氏の捉えかたは興味深いものである。

 均一化した現代においては、都会の人間も山奥の人間もそれほど違いがあるわけではない。かつてのようにしゃべり方でその出所が明らかになった時代もあったが、このごろはそれほと違いはなくなってきた。もちろんそれをいまだ強く感じる「方言」による違いを経験することはあっても、姿ではそれは捉えることはできない。福澤氏は柳田国男が関心を寄せた「山人(やまびと)」にふれ、次の文を引用している。

「相州箱根に山男と云うものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来たりて米に換ふる也。人馴れて怪しむこと無し。交易の他他言せず。用事終れば去る。其跡を追いて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如く去る故、終に住所を知ること能はずと謂へり。」(柳田国男 1968 「山の人生」『定本柳田国男集』四 筑摩書房)

というものである。話そのものを現代人が捉えると伝説的なものに聞こえるが、均一化していなかった時代には、たとえば現代でも地球上のどこかに原住民として暮らしている人々に似たような話があっても不思議ではない。情報の無い時代。移動をそれほどしなかった時代の人々の間には、こうした特異な存在に映る人がいたことだろう。そして山奥に暮らし、交易のために下りてきた人を捉え、伝説的物言いをして言い伝えた話は、福澤氏の言うように尾ひれのついた話しとして語られるわけである。伝説の深層にはそうした実際の話に尾ひれがつき、そして語り物として成立していったはずである。

 いっぽう前例のように神々しい人となりで伝説化されるものとは異なり、いかにも山からやってきたことを揶揄した物言いも伝えられる。長野市の事例である「おっさんどこだい □□かい 商売なんだい 炭焼きだい どうりでお顔が 真っ黒だい」を紹介している。子どもたちの囃子ことばとして似たようなものはかなりあるという。差別視されたことばであるが、炭焼きでなくとも同じような囃子ことばが生まれても不思議ではない。マチに物を売りにきた山付きの人やもっといえばサトの人でさえ揶揄されることがあったであろう。そこには「マチの人々に、ヤマの人々を見下した思いがあった」と福澤氏はいう。山人は少しばかり人間の姿に見えてくると、今度は見下された人に変わるのである。けして逆の視線(マチの人に対して見下すような)を浴びせることはない。福澤氏はマチとサトのことについても同様の視線を捉えている。「マチの商売人にとってサトの人々は商売の相手として重要なものだったにもかからず、マチに来るときの服装、言葉遣い、安価な物しか買わない懐具合などで、ヤマの人々に対するほどではないにしろ、やはりマチよりも一段劣ったものだと見る傾向があった」と。

 ヤマとかサト、そしてマチといった具合にそれぞれの暮らしを補完するかたちで交易が行われた。しかしそこにはそれぞれの人間性が育まれていく。もちろんこうしてそれぞれに上下意識を持つことにもなるけで、人権として平等があったとしても、それぞれの意識の中には必ず上下を持つことになる。マチとはいわなくとも商売人は大勢の人を客として招く。とすると小宇宙の多様な人と接するわけで、そして腹の中には真意を納めて物を買ってもらうことに専念する。そこに嘘が存在するとまでは言わないが、自ずと人となりを伺いながら人を評価することになる。妻はかつて「商売をやっている家に生まれた者は信用おけない部分がある」と言った。口は上手いものの、腹の中は見えないというものだ。けして腹黒いなどとは言わないが、人とそれほど交流しないサトの人々は口下手になるのは当たり前である。加えて垢抜けなくなるのも当然である。そこへいけば揶揄されようと、ヤマの人々の方がヨソの人たちとの接し方を知っているのかもしれない。実は農業が廃れた要因に、交流圏が広がりスピード化することにより、こうした意識に束縛されてしまい自らを見下してしまうことを避けたいというその環境にあったとも言えないだろうか。

 続く。
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