Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

無言の文芸

2008-12-14 13:58:14 | ひとから学ぶ
 今何をするべきか、また何を考えていけば良いのか、なかなかそういうことを考えながら日々を暮らしていくと言うことは難しいことなのだろうか。

 同じ空間で仕事をしていても、率先した行動はなかなか見えなくなった。仕事量がそれほどないというなら、残りも数ヶ月となった今年度を見渡せば、余裕が出てきて当然の時期である。しかし、かつて自ら口に出して「仕事ありませんか」とか「何かやろうか」という言葉はなかなか聞こえなくなった。自らの枠組みの中で、それに分担意識を持っていればそれでよしというのか、それともこの程度の仕事でも多すぎるという状態でアップアップだというのか、きっとどちらにも当てはまるのだろう。「忙しい」という言葉ほど個人の感度である言葉はない。もちろん日本人には本音と表向きは異なるという意識が育まれているから、さらにそれは確実には捉えがたいものになる。

 先日武田鉄也の「今朝の三枚おろし」というラジオ番組で、日本人は言葉に使われることのない唯一の人種であるみたいなことをやっていた。外国人の捉えた言葉の不思議さというやつだが、その例として俳句を取り上げていた。「松島や、ああ松島や、松島や」という俳句は、ただ土地の名前を3回唱えただけなのに、そこから多様に想像することができる。土地の名を3回繰り返しただけでそれができる日本人は、その想像性の豊かさは驚きと言えるだろう。むしろそこから何かを感じられない外国人の方がわたしには不思議に思ったりする。自らを控えて言う言葉は、数えればきりがない。ようはわたしたちには言葉だけでは表せない内面性を持ち合わせているということになる。この内面性は、人との関わりからでないと解ってこないし、関わっていたとしても常に相手の心情を探りながらでないと、本意は見えてこない。職人の世界で、親方は弟子に具体的なことは教えはしない。その技を盗んで一人前になっていく。職人には言葉少なな人が多いのは、俳句を超えた文芸といっても良いかもしれない。風、とか空気、といったものは描くことのできないものであるが、実はそこには重要な日本人のこころが存在していることを忘れてはならない。そうした描くことのできない世界は、職人だけのものではなく、現在の社会の中にも描くことができない分、なにかしらの空気として継続されているはずである。

 そんな空気をわたしは会社の中にも感じてここまでやってきたが、明らかに自分より若い世代は、そうした空気を読めなくなっている。簡単に言えば他人を見ない。見ない以上は他人は解らない。会話の中に奥深い文芸を感じることはない。もちろんわたしは「解らない」人という空気をそこに読んでいるが、きっと相手は無味無臭のようにわたしとの関わりを流していくだろう。こうした蓄積は、わたしの方には累積していくが、相手には何も積まれていかない。せっかく生きているのだから、その時々にいろいろ感じようという気持ちはなさそうである。個人主義といってしまえばそれまでではあるが、それでは日本人の「こころ」は継承されない。

 かつて高校生のころ、大人社会に不満を抱いていた自分は、仲間が同じような世代に「眼をつける」ように大人たちに視線を浴びせていた。「お前らはいったい何を考えているんだ」みたいに無言のやり取りの結果を求めていた。これはわたしの言葉のない文芸だったのかもしれない。けしてそんなまなざしをしていたのはわたしだけではなかった。何かを感じようとしていた時代である。ところがどうだろう、今の高校生たちを見ていると、人へのそんな無言のアピールなどする者はいないし、①勉強をしている者、②携帯を操作している者、③放心したようにイヤホーンの音を聞いている者、この3パターンに集約できる。もちろんそれ以外の者もいるが、人との間で無言の文芸を描くタイプはまずいない。驚くことに車窓の景色を見ている者の少ないこと。とても教えてできる世界のことではないが、多感さのない人々は、いったい「何を今すべきか」ということをどうやって認識していくのだろう。それがなくとも生きられるこの世の中が「ありがたい」ということなのだろうか。
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