Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農業農村の憂鬱

2008-12-08 19:44:47 | 農村環境
 乱立する農産物直売所が国内農業を疲弊させているのではないかという内容を扱った「「安さ」の落とし穴」(『生活と自治』12月号/生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)という記事は、本質を見抜いている記事といえるだろう。直売所は全国に1万3千箇所ほどあるという。年間数十億という売り上げを上げる巨大直売所もあると言うが、農家の売り上げにしてみれば50万から100万程度がほとんどだという。そうした直売所で売られる農産物は、スーパーなどで売られているものより安い。なせ安いかといえば、それら直売所へ降ろしている農家は、それだけで生業を立てているわけではなく、たとえば息子たちが稼いでくるから、とか自ら別の収入がある、さらにはすでに年金生活だからそこまで稼がなくてよい、という農家の環境がある。「趣味」とまでは言わないが、余力、あるいは小遣い稼ぎという感覚があるからスーパーで売られている農産物とは背景が異なる。現在の農業はこうした多様な農家の環境をいっしょくたにして語られている。たとえば直売所にいるおばさんたちやおじさんたちの生業としての背景がどうであれ、「活性化している」というイメージでそれらは評価されている。もちろんそうした人たちばかりというわけではないが、農家が高齢化しているということは、将来はともかくとしてとりあえず自分たちが生きていければよい、という感覚になる。たとえは悪いが、学校のクラスに真剣に勉強をしようとしている子どもたちと、足を引っ張る生徒が共存しているようなものかもしれない。それでいて足を引っ張る生徒たちがまったくダメなら一生懸命やっている子どもたちも納得いくが、足を引っ張る子どもたちがそこそこ勉強ができたりするとなかなか心理状態は複雑である。

 農家の間でこうした現実を例にとって文句を言う人たちはいないかもしれないが、もし趣味的に農産物を売っている直売所に客が取られてしまう、あるいは農産物価格に影響を与える、などということがあればますます高齢者産業に陥ることになるだろう。いわゆる専業で農業を行っている農家は、ますますその販路の開拓なり、規模拡大を進めなくてはならなくなり、農家というひとくくりの中に大きな差が生じてくることになる。こうして農家が変わり、そして農家が住む地域も変わってきたといえよう。その現実を見る限り、そこへ若い人たちが入り込んでくるというのもなかなか勇気のいることであるし、子どもたちに農業をやらせようなどという人もいなくなる。かつてもそうであったが、現在専業で農業をやっている人たちが、子どもに農業を継いでもらおうなどと思っている人は稀だろう。

 自由競争という市場である以上、直売所が安く売るのは勝手のことである。しかし、農村で営まれているこの生業は、企業の競争とは違う。企業には地域が介在しないし、人々の暮らしも介在しない。もしそれがあっても、企業が破綻するという時にはそんなことは一切無関係である。ところが農業は人々と大きく関連してくる。これほど農家が減少しても、農業は人々の暮らしに関わり、まったく無縁というわけにはいかない。その良い例が先日も触れた「水路」である。もし大規模担い手にすべての農業がゆだねられたとしても、農業用水路は人々の暮らしの中を流れている。そしてその水路に人々は住みかの排水を流している。農業という企業がもしこれを担ったとすれば、たとえば大事業所が造成される時のようにその関連施設をすべてその事業所が管理し、さらには水田の排水を住民に迷惑をかけないように処理しろなんていうことになったら、農業の継続は不可能である。ようはどれほど集約されようと、そこに住処を持っている人たちは農業と「無縁」とはいかないのである。とすればまったく違う環境の農業を営む人たちを同じように見るのは、将来に問題を残すことになりはしないだろうか。

 「地元の農産物が安く手に入って困るという人はいないだろう。だが、その安さが日本の農業の土台を危うくしていること。そして、農業の自立があってこそ地産地消が成り立つことを、農家も消費者も知る時が来ている。農家の自己主張と消費者の理解のない地産地消は長続きしないといえるだろう」と記事ではまとめている。直売所に農産物を供給している農家がなくなれば、いずれはこの結論に達することになるのだろう。ようは趣味的な農業=自立農業ではないということなのだ。
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