Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

住まうことの技術

2008-12-17 12:38:42 | 民俗学
 宮本八惠子氏は「身体と技」(2008/10 『日本の民俗11 物づくりと技』吉川弘文館)において「住まうことの技術」について触れている。埼玉県大利根町の千代さんという明治40年生まれの女性の昭和2年の日常の動線を追い、住まいの中でどの空間で何をしていたかをあからさまにしている。宮本氏は「住まいにさまざまな生活用具や物資を配置する行為や、その空間に描かれる動線は、まさに身体か為し得る「行動の技」である。動線は、体内に流れる血液のように住まいの空間を日々流れつづけ、これには太い動脈もあれば毛細血管もある。また、動線の集中する場所は心臓部に値し、ここにし多数のモノが配置され、モノを絡めた行為が展開される。こうした動線は、住まいを作る(創る)行為にほかならず、動線がスムーズに描かれることで住まいは居心地よい空間へと形成されていく」と述べる。住まうことを行動の技といい、居心地よい空間、そして暮らしは技とまで言い切る。本書のタイトル「物づくりと技」からは想像もできない飛躍的な視点であるが、なるほどと思わせる面もある。居心地の良さを見出せない人は、そこに配置されたモノ、あるいは所持しているモノに問題があるのか、それとも居住する空間に問題があるのか、いずれにしても人の暮らしそのものが技の為し得るものということになる。住まうことの技を持ち得ないことは残念な暮らしをしているということにもなり、人は皆居心地よい住まい方をそれぞれの思うところに描いていくわけである。そういう視点でいけば、路上生活者にも技があるのだろうか。

 モノをいかに利用して住まう空間を描くか。ところが人には隣の庭がよく見えるもので、必ずしも住まう技を出したからといって満足はしていないだろう。となると、動線から導き出される技はわたしたちに何を教えてくれるというのだろう。少しばかり具体的なものを描けないでいるのも事実である。千代さんの暮らしでは、家の中すべてを通常利用しているわけではないことを証明し、日常はオカッテやダイドコロを中心にして寝るときだけネドコロ(寝室)へ入る。住まいの空間には日常と非日常がありこれをハレとケに区分されることであるという。こうして区分されることで暮らしにめりはりが効いてくるとする。閉ざされた空間いわゆる非日常の空間は、外部の者を招くための「開かれた空間」であって、そこは「いつ来客があっても慌てぬように常に整然とされる。余分なモノは一切置かれず、すっきりと片付いているのである。まさ、潔いほどの住み分けの技術といえる」と結論付けている。ここに曖昧な雑然とした住処はなく、それぞれの空間をどう位置づけているか、またどう利用するかということが整理されていることが解るわけであるが、必ずしもハレとケが区分されていなくとも住むための技術というのは存在すると宮本氏の考えからわたしは導くが、宮本氏はあくまでも「めりはりのある」生活には区分けがされているという考えのようだ。

 いまやモノは自ら調達することはほとんどなくなった。これもまた経済効果の比較となれば、手間よりは購入という選択に流れていった結果ではある。したがって多くの人々が自らの手から技が無くなり、また技を売り物にするいわゆる職人の低迷を感じているだろう。しかしわたしたちはそうした現実的な見える技ではなく、さまざまな経験としての技を持ち合わせていた。住まう技はそうした視点をあてたものであって、教えてくれるものは多い。考えてみれば、住み分けを行う空間は、しだいに若い人たちからは消えてきているといえよう。客を招くための空間は「必要か」という問いに、いまや「必要ない」と答える人々は多いはず。なぜならば核家族化による住処の分散は、客は限定されたものではなく、すでに客は身内的な存在にさえなりつつある。ようは客間に通すような客はやってこないのである。「めりはり」にこだわる宮本氏の言うような空間はすでに不要となりつつある。しかし、それが果たして居心地の良いものかどうかは別である。これは住居に限られた問題ではないだろう。人と接する技を持ち得ない現代の人々が、いかにめりはりの効いた暮らしができるかということにもつながる。そして不快感の伴うモノは廃棄していく現代は、すべてがそうしたモノとの付き合いの技術に関連しているといえるのかもしれない。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****