Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

1年の区切り

2008-12-27 17:40:37 | つぶやき
 「忘れ物」で触れたように、わたしは常にポケットに小さなダイアリーを持ち歩く。年末を迎えると、いえ年末までいたらなくとも新年が見えてくると、本屋の一角にこうしたダイアリーや日記帳の類などがたくさん並ぶことになる。常に所持しているということもあって、時折そうした商品に目を通すのたが、先日もわたしが使えるようなものがないかと探すが、この季節だから1―12月というものしか並んでいない。すべてに目を通したわけではないが、4―3月という商品は見られない。わたしが利用しているものは、仕事の情報を多く書き込んでいるからもちろん4―3月というものである。わたしにとっては今の仕事をしている以上は、これが1年のサイクルである。もともと農業主体に動いていた世界で生まれ育ったわたしには1―12月が当たり前のものであったが、今の仕事について既に30年、もはやこのスタイルの方が長い。加えて世の中から正月というイメージが薄れた。

 年末商戦とか年賀状、そして大掃除から初詣とそれほど長くない期間に誰とも同じ行動をとればイメージとして「正月」は確立できるのだろうが、その年中行事たるものも、子どもが大きくなるとともに我が家からは薄らいだ。こうしたわが世界の正月興行を省いてしまえば、むしろ転勤による異動を伴っている年度末は大きな節目となる。ほとんど異動もない人々にすれば、その年度末は単なる仕事上の一場面にすぎないかもしれない。しかし、異動を伴うとすれば、住処を変えることもあるわけで、プライベートに至ってもこの季節の比重は大きい。もちろんいわゆる正月のような風情などそこにはないが、多忙な世の中にあって、そうした風情ある正月を「省ける」と思ってしまうあたりに自分の生活のメリハリの無さを感じたりする。「身体と技」(2008/10 『日本の民俗』)において宮本八惠子氏はハレとケのメリハリある生活も技術と説いた。そう考えればわたしの生活は技術を失い欠けているのかもしれないが、この時代の生業は、1日の中に十分にそのメリハリを与えてくれる。

 余談が長くなったが、いずれにしてもわたしのイメージする1年はねもはや4-3月と考えている。暦上の1年が終わるわけだから、書店などに並ぶダイアリーが、1-12月のものであるのは当たり前で、この時期に4-3月を置く方が戦略としては無駄なことなのかもしれない。それはともかくとして、解っているからわたしもこの季節に買うことはないのだが、なぜ目を通したかといえば、たくさん並んでいるから4-3月ものも「あるかも」と思ってのこと。3月に入ってそうした商品が並ぶ季節に比較すれば、明らかに品数も多く、たくさんの商品が並ぶ。ようは4-3月の品数は少なく、売り上げも今の方が多いのだろう。そこから思うのは、わたしは人と比較すると少数派ということになる。しかし、前述したようにこんなビジネス風ダイアリーなどというものは、使うのは仕事人間だろう。とすれば、そうした人たちはこの1-12月ものをどう利用しているのだろう。わたしには不思議でならない。保存しておくにも年度ごとの方があとから確認しやすい。たとえば「平成5年には何をしていただろう」、と記憶の中で紐解くときには、年度を区切りにして思い出す。やはりそのときにどこで働いていたかが記憶を引き出すのに楽だからだ。日記帳などもそうだが、これほど4月を意識させられるようになっている以上、年末にこうしたものがたくさん店に並ぶのが納得いかないのだ。とはいえ、わたしも今の仕事を退いたり、あるいは老後の余生を暮らすようになると、また1-12月のサイクルに戻るのかもしれないが、ところが地域社会も今や同じサイクルで会計が締められている。ますますいまだ1-12月が当たり前のごとくたくさん売られているのが不思議なのだ。そういえば、会社に縁のある関係者からこの季節はカレンダーやらダイアリーをいただくが、こうしたものが同様に1-12月というあたりも変わらぬ世界が見える。いらないとは言わないが、たまには4-3月のカレンダーがあったって面白いし、会社関係でダイアリーを配布するのなら4-3月もの(この季節に売っているのかどうかはまた調べてみるが)を欲しいものだ。
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