Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「海と里」から③

2008-12-11 19:46:27 | 民俗学
「海と里」から②より

 安室知氏は『日本の民俗1 海と里』のあとがきの中でこんなことを述べている。「海付の村にはあまりゴミが落ちていない。二五年くらい前はじめて民俗調査に訪れたときは、風にさらされる廃屋と捨てられたビニール製の漁具や発泡スチロールの残骸ばかりが目についたが、今見る海付の村はきれいである。かつては村のにおいもどこか魚の腐ったような不快なものに感じたが、今はそんなこはない。見た目が影響しているのだろうか」と。ここに安室氏は、海付の村においてかつてとは異なる住民の意識の変化を見たのだろうか。荒れ果てていた風景に変化が見え始め、それが「海と里①」で触れた「衰退する民俗といったイメージを脱し、新たな民俗学の胎動」の予感につながっているのかもしれない。ただその傾向の背景と現実の問題、そして果たしてそうした変化が何によってもたらされたかというところは、民俗学というよりも社会問題として把握しておかなくてはならないことだろう。

 安室氏は続けて海付の村から次のような印象を口にする。「最近海付の住人と話をしていると、世界経済や地球環境問題への関心が高まっているような気がする。そうしたものへの関心に絡め、地域や村を活性化するにはどうしたらよいかといったことを熱く語る人もいる。(中略)話を聞きに行って、反対に世界経済や地球環境問題にいて教えられて帰ってくるのである」。そして、「今、漁といういとなみを続けるには、世界規模・地球単位の広い視野が求められているのであろう。その意味では都会に暮らす人以上に世界経済や地球環境問題に関しては敏感にならざるを得ないし、語るべきことを多く持っている」と言う。けして海付の村だけのことではない。WTOの行方で大きく左右される農業。そしてそれに振り回されるように方針を変えてきた農政。その行方をなんとなくは読めるものの、農政はそれ以上に右往左往して補助金を期限付きにばらまいてきた。そしてその補助金目当にしていれば、自ずと世界経済や地球環境問題が耳に入り、あたかもかつての農村とは違う空気が流れているように錯覚を覚えた。もちろんそうした意識によって、さらにはこのごろの住民参加型という流れの中で、行政の流れに沿って共同作業を展開してきたことも確かで、表面的にはかなりまとまりある事業が起きてきたという捉え方がされているだろう。しかし、それを見て例えば安室氏の言うような新たな胎動と捉えてしまうのは少し民俗性という面では違うのではないかと思うのだ。野池恒有氏は前掲書第三章「海の行動学」の中で、移住漁民の移動性に触れている。また新興住宅地における民俗の創生についても触れている。新たな住民の中で、あるいは新たな人々が加わることでどう地域が民俗化するのかということについて、確かに興味深いことではあるが、何度も言うように、それが民俗学が求めていくことなのだろうか、といまひとつ素人には理解できないことである。

 今、農村で語られる「環境」が、これら海付の村の知識に匹敵するものかは解らない。しかし、それらを見ている限り、自らの意識でその知識を高めたいと思ったと言うよりは、そうでないと「金を出さないぞ」とばかり国がそれらしいパフォーマンスを見せたためであって、そこに本当の意味で「環境」や「世界情勢」の知識が根付いているとはなかなか言えないような気がするのだ。実体験のなくなった民俗学徒たちが、果たして農村の本音を捉え切れているのかどうかと危惧しているのはわたしだけだろうか。
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