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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大泉の里 その弐

2008-12-16 12:28:41 | 歴史から学ぶ
 大泉の里 その壱より

 きっと水には苦労したんだろう、という印象を持っていた大泉が実は水の湧き出る地であったというのは、人々がそこに住み着いたということからも予想はついたものの、その後も水が豊富に湧き出でていたかどうかは解らない。もともと集落は東西方向に展開していたというが、春日街道が慶長13年(1608)にできるとここに宿場が置かれ、南北に展開する町に変わったという。おそらく水のことを考えれば南北より東西の方が自然ということになるだろう。湧き水は段丘崖下には出るだろうが、段丘上には出ないはず。とすれば段丘崖が東西に展開しているのだから、自ずと家々も東西に展開することになる。ところが道は南北に通るから、その道に沿って家々は展開し始める。不思議なことに水よりも収益性が高かった交易の町へと変化を遂げたのだろう。

 今でこそどこを見渡しても西天流幹線用水路より下流域は水田、上流域は牧草地を中心とした畑となっている。この西天竜幹線用水路は集落でいくと春日街道より上部を流れている。したがってほぼ集落域を境に、その環境が一変するといってよい。それはまさしく水の無い地は畑、水のある地は水田という形を見せることになる。前回述べたように南は沢尻に、北は延々と集落がないということからも、この一帯は大泉以外の土地はほとんど山(平地林)だったといえる。西天流幹線用水路の設置(昭和3年竣工)に伴って開田事業を行ったというように、そこそこの水田や耕作地はあったかもしれないが、水田の面積はこのとき飛躍的に伸びたのだろう。いずれにしても伏流水が湧き出でる地ではあったものの、ほとんどの集落は天竜川に沿った段丘に平行して展開しているところからみても、それらの地より水の便が良かったということはないだろう。

 『南箕輪村誌』で特筆すべきは、歴史編の第4章にある「水と村の生活」である。いかに水との関わりが強かったかということを示す章立てである。そしてその冒頭は「水を求めて」と始まる。人々の歴史は水を求めることに終始したともいえる。さらにはその「水を求めて」の多くを大泉のことが占めており、やはりこの地が歴史上で常に水を求めてきたことがうかがえる。



 もう少し同書を読んでいこう。農業用水を求めて井堰を設けようとしたのはどこも同じことだろう。しかしここ大泉が「尾泉」だとすれば、この上流域は透水性の高い土地であることが解る。ようは井堰は高いところから低い所に流していくわけだから、この地で水を利用しようとすれば、もっと高いところから水を引いてくることになる。ところがここより高い所が透水性が高い土地とすれば、井堰を設けても漏水してしまうということになる。その通り漏水する井堰との戦いであったことが同書の中で触れられている。元禄12年(1699)に大泉村から出された文書の解説には、「農作物の作付けをするにも、2kmも隔てた南殿や北殿へいって、人馬で汲み上げ、飲み水にし、またこやしごしらえをしている。それで他村で一人作の場所が、大泉では二人でなければ作れない。一一月中ごろから二月中ごろまでの冬期間は、4kmもある井筋が凍上って、水は一切なくなってしまう。そこでまた北殿や南殿までいって汲み上げてきて人馬に給するので、冬かせぎをしたくてもできない」という具合である。田はあっても水がないから畑にするしかないという村は、概して厳しい暮らしをしていたようである。さらに畑にしても「風の害やひでりの害をうけやすい。とくに近年は猪鹿がでて来て大分作物を荒し回り迷惑している」という。今でこそ中央アルプスの麓まで開拓されているが、当時はまだまだ山が多く、いわゆる山付きの村では獣による外が発生したことだろう。そして段丘崖の村々と違って、野原の大泉は風がとても強い。さまざまな面で耕作するには苦労の耐えなかった地といえる。

 続く

 撮影 2008.12.12
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