Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

食品偽装

2008-12-15 12:47:34 | つぶやき
 「儲かりさえすればよい」「偽装しなければ競争に生き残れない」。12/14放送されたNHKスペシャルは食品業界のモラルハザードと日本の食糧事情の根本的問題点を指摘してくれるものであった。国内で食品がまかなえない以上、輸入は必然のこととなる。しかしながら中国ギョーザ事件を発端に中国産食品に対しての風当たりはとてつもなく大きいものとなった。下火にはなりつつあるそうした問題であるが、それを消してしまうまでの段階でないことは誰しも理解していることだろうが、殺人事件でも一過性のニュースに過ぎないこの時代において、どれほど国民がこのことに注視しているかは疑問な点も多々ある。食料自給率を上げようというものの、強いてはそこに従事している産業を上向きにしなくてはそれは成し遂げられない。しかし現状はいかがだろう。原材料である農産物にしても畜産にしても、その原点である生産への風は一向に前向きにはならない。今こそ国産で、という声は大きいものの、多様化したニーズと、いまだ余り物を平気で出している国民に対応した食材は、「供給できない」というのが現実である。よくいう「身の丈に応じた暮らし」を原点にすれば、不況の嵐など吹かずともかつてのようにハレの食事は日常ではないという暮らしに戻るはずなのに、札束で平気で日常の食を支えているようでは意識など変わるはずもないのだ。

 生産直結の産業人口が減少し、人が供給するものを横流しして稼ぐ業が栄えるのも、そうした流れの中で変移してきたもので、だからといって将来まで延々と同じ業界が栄える必要などない。少しでも生産を行う人々が増えていくのが今後のあるべき姿と思うのだが、そうした産業が嫌われている傾向があるのは言うまでもない。簡単に言えば材料を自給できない国は、技術が低下するだろうし、身体も退化していくのだろう。教育は頭脳だけが求められる。手先の器用さなど必要ないのである。

 先日、予定では夕飯までに帰宅すると言っていた妻と息子が、遅くなってしまったといってわたしに弁当を買ってきた。たまたま寄ったコンビににこれしかなかったという弁当はスキヤキ弁当である。もともと肉がそれほど好きではないわたしに、妻はうどんを作り夕飯としてくれたが、息子に限らず現代の家庭ではこの両者の選択があったら、多くは弁当を選択するだろう。翌日休日の会社に向かうわたしに妻はその弁当を「持っていったら」と差し出したが、表装の上から中身を眺めて「いらない」とつい本音がでてしまった。値段を見ると550円。コンビニの弁当はけして安いものではないのに、よく売れる。安くないのはそれだけ安全な食材を利用しているのか、それともさまざまな人の手を介していることで高いのかは定かではないが、その背景に多くの働く人の顔がきっとあるのだろう。だからそれを否定するのはその人たちの職を奪うことになると言うのかもしれないが、そんなものは目指すものとは違うはず。「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉が日本にはあるように、こうした連鎖を受け入れている体質があるが、それだからといって低下していく生産人口を当然と言ってはいられないだろう。食のことにいろいろこだわる妻でも、こうして購入品をけっこう利用することがある。わたしだったら主食に安易に出来上がりの弁当を選択することはない。

 番組で気がかりに思った点が2点ある。そのひとつは材料の生産地表示の話である。確かに細かい表示がされていることはありがたいことであるが、そもそもそうした材料を買わなくてはならないところに、既にそうしたリスクがあると思うべき(この考えは異論が多いかな)であって、表示することの労力に金をかける、あるいは提供者の負担にさせるという平気はちょっと方向というか認識がどこか違うのではないだろうか。すべての食材にそうした義務を課すのが適正とは思えない。もうひとつは中国が安くて不評の日本を見切って、他国へ材料を供給し始めたということである。「そんなうるさいやつらに提供しても感謝されないなら別の人たちに売ろう」というものだ。これほど中国頼りの日本にあってこの傾向は気がかりといえるだろう。
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