Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「女」たちの建てた「水神社」

2008-12-05 12:33:10 | 歴史から学ぶ


 別の日記の「古の理容店」で南箕輪村大泉の集落内の裏道にあった理容店について触れた。脇を用水路が流れていて、現在はこの用水路の源は天竜川である。昔なら天竜川の水がここへ流れてくることはなかったが、西天流幹線用水路が開設された昭和3年以降は、かつては想像もできなかった水が、ここまで流れてくることになった。もちろんそれまで水が一滴も来なかったわけではなく、木曽山脈から流れて来る水がきっとかろうじて程度なのかもしれないが流れていたものだろう。この地域は扇状地上に展開しているため、水は伏流してしまい、水の便が悪かったという。窪に流れている河川にも、豊富な水が流れているという印象はなく、もぐりこんだ水は遥か東にある段丘崖にまで至って、ようやくその姿を見せていたようで、現在でも段丘崖の山林の中にそれらの水を利用したわさび畑があちこちで見ることができる。

 この理容店の脇の水路、少しばかり南へ下るとその傍に写真のような石碑が立っていることに翌日気がついた。碑面には「明治四十一年 大願成就 奉納水神社 九月吉日 丑年女」と刻まれている。明治41年というと西天流幹線用水路の造成の話はあったかもしれないが、まだその施設はなかった。その時代に建てられたこの石碑は大変興味深い碑といえる。現在ここに祠があるわけでもなく、なんら特別な空間を醸し出しているわけでもない。脇の水路は幅にして一尺弱、現在はコンクリートの二次製品で整備されている。理容店の前まで流れてきた用水路は、そこから方向を変えて水田地帯に下りていく。道沿いに流れる用水路は、どうみてもそれほど利用価値の高い用水路ではない。その用水路の傍ら、それも個人の家の裏口のようなところに、女が建てた碑があるということがとても興味をひくのである。

 かつて水道のなかった時代においては、日常の水をどう確保するかというのは日々の労力という面では比重が高かった。煮炊きの水はもちろんのこと、風呂の水にしてもその大量な水を用意するのが一苦労だったという話は昔の人たちから当然のごとく聞くことができる。井戸水が確保できればよいが、この扇状地においては井戸を造ることさえ容易ではなかったということは、以前に「「マンボ」とは言うけれど」で触れた通りである。するとこの集落の人たちはどう水を確保していたのか。もちろん農業用水として導水された以降の天竜川の水が、こうした日常の用水としてはそれほど利用されたかだろう。ということは西天流幹線用水路が開設されたからといって、それまでの生活上の水の苦労が解消されたとは言いがたい。

 この石碑の建立者が「女」であるということ、ようはふだんの暮らしの水に苦労していた女たちが、この脇を流れる水路に何を託して建てたものなのか、あるいは水路が今でこそそこに流れているが、当時このあたりに井戸でもあったものなのか、その答えをまた確認してみたいものである。
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