中国といえば広い道を自転車がわんさか走っている、というイメージがあるが、今や自動車がわんさか走っている。異常な経済成長をしているというとおり、とても普通じゃない。でも考えてみれば、世の中がどんどんスピード化しているのだから、何も不思議なことではない。かつての日本の進歩も飛躍的だったのだろうから、この時代の進歩はもっと早いはずだ。中国の技術を見ていて「日本の○十年前だ」なんていっていたのはつい先ごろのことだったが、すでに追い越されているものもたくさんあるのだろう。その品質や技術が劣っていた時代にすら、made in chinaが氾濫していた。そのまま何年もたったが、そのころとさほど変わらないmade in chinaの氾濫が今もある。しかし、明らかに高級品にすらそのネームが見られるようになり、技術的な部分も中国作品に席巻されている。どこかのテレビでコメンテーターが言っていたが、あまりに中国に頼りすぎている現実がありながら、その中国と外交上仲良くできないとしたら、中国に何かがあったときの日本の影響は大きいと指摘していた。まさにそのとおりなのだろうが、それよりもこのスピード感はどこまでゆくのか、ということの方が不安は大きい。それは中国を対照にするだけではなく、全世界を対象にそう思うのだ。
実はこのスピード感は、自然界にも見えている。いわゆる短期間、短時間という気象の現れである。集中的な豪雨。集中的な風。それらは代表的なものだろう。そしてスピード化する極域での温暖化。このスピード感を、みんな認識しているだろうか。発展途上の国がすべてスピード化したとしたら大変なことである。だからこそ、スロー化を選択する人々が発展を終えた国の中に増えることが大事なのかもしれない。それを格差といってしまうと短絡的であるし、リタイヤといってしまうのも納得いかない。やはり〝選択〟というもののように思うわけだ。その選択が自由度のあるものだと思いたいが、はたしてこの国の人々はそれを〝選択〟と捉えることができるだろうか。まずこのスピード化の果てをちょっと考えてみること。そして同じスピードに乗っていては、ついていけない人がいるのは当然だと思えることではないだろうか。
暖冬と言われるものの、朝方の冷え込みは厳しい。確かに平年を○度下回る、という朝があるが、そんな前日の夜の雪が解ける音を聞いていると、かつての夜ってどうだったのだろう、と思い出したりする。明確に思い出すことはできないが、夜遅くに雪の解ける音を聞くということはなかったように思うわけだ。そんな現実を認識しながら、気温の変化も、かなり急激でスピード化しているように感じるわけだ。自然界がどんどん人々の暮らしにあわせてスピード化し、自然そのものが人間の動きによって変化してきている、そんなことを思うわけで、「自然の力は大きい」とか「自然界は違う」なんていう言葉はまったく思い過ごしのように思えてくるが違うだろうか。確かに雄大な姿を見せている場所もあるだろうが、人間界から離れた場所での変化は、常にそこにいないと見えない。だからなにより自らの周りで自然と相対している人たちが、その変化をどれだけ認識しているか、ということになる。都会の真ん中、地方都市でも街中に身をおいていると、その姿はなかなか体感できない。
実はこのスピード感は、自然界にも見えている。いわゆる短期間、短時間という気象の現れである。集中的な豪雨。集中的な風。それらは代表的なものだろう。そしてスピード化する極域での温暖化。このスピード感を、みんな認識しているだろうか。発展途上の国がすべてスピード化したとしたら大変なことである。だからこそ、スロー化を選択する人々が発展を終えた国の中に増えることが大事なのかもしれない。それを格差といってしまうと短絡的であるし、リタイヤといってしまうのも納得いかない。やはり〝選択〟というもののように思うわけだ。その選択が自由度のあるものだと思いたいが、はたしてこの国の人々はそれを〝選択〟と捉えることができるだろうか。まずこのスピード化の果てをちょっと考えてみること。そして同じスピードに乗っていては、ついていけない人がいるのは当然だと思えることではないだろうか。
暖冬と言われるものの、朝方の冷え込みは厳しい。確かに平年を○度下回る、という朝があるが、そんな前日の夜の雪が解ける音を聞いていると、かつての夜ってどうだったのだろう、と思い出したりする。明確に思い出すことはできないが、夜遅くに雪の解ける音を聞くということはなかったように思うわけだ。そんな現実を認識しながら、気温の変化も、かなり急激でスピード化しているように感じるわけだ。自然界がどんどん人々の暮らしにあわせてスピード化し、自然そのものが人間の動きによって変化してきている、そんなことを思うわけで、「自然の力は大きい」とか「自然界は違う」なんていう言葉はまったく思い過ごしのように思えてくるが違うだろうか。確かに雄大な姿を見せている場所もあるだろうが、人間界から離れた場所での変化は、常にそこにいないと見えない。だからなにより自らの周りで自然と相対している人たちが、その変化をどれだけ認識しているか、ということになる。都会の真ん中、地方都市でも街中に身をおいていると、その姿はなかなか体感できない。