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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

スピード化する自然界

2007-01-16 08:13:44 | 自然から学ぶ
 中国といえば広い道を自転車がわんさか走っている、というイメージがあるが、今や自動車がわんさか走っている。異常な経済成長をしているというとおり、とても普通じゃない。でも考えてみれば、世の中がどんどんスピード化しているのだから、何も不思議なことではない。かつての日本の進歩も飛躍的だったのだろうから、この時代の進歩はもっと早いはずだ。中国の技術を見ていて「日本の○十年前だ」なんていっていたのはつい先ごろのことだったが、すでに追い越されているものもたくさんあるのだろう。その品質や技術が劣っていた時代にすら、made in chinaが氾濫していた。そのまま何年もたったが、そのころとさほど変わらないmade in chinaの氾濫が今もある。しかし、明らかに高級品にすらそのネームが見られるようになり、技術的な部分も中国作品に席巻されている。どこかのテレビでコメンテーターが言っていたが、あまりに中国に頼りすぎている現実がありながら、その中国と外交上仲良くできないとしたら、中国に何かがあったときの日本の影響は大きいと指摘していた。まさにそのとおりなのだろうが、それよりもこのスピード感はどこまでゆくのか、ということの方が不安は大きい。それは中国を対照にするだけではなく、全世界を対象にそう思うのだ。

 実はこのスピード感は、自然界にも見えている。いわゆる短期間、短時間という気象の現れである。集中的な豪雨。集中的な風。それらは代表的なものだろう。そしてスピード化する極域での温暖化。このスピード感を、みんな認識しているだろうか。発展途上の国がすべてスピード化したとしたら大変なことである。だからこそ、スロー化を選択する人々が発展を終えた国の中に増えることが大事なのかもしれない。それを格差といってしまうと短絡的であるし、リタイヤといってしまうのも納得いかない。やはり〝選択〟というもののように思うわけだ。その選択が自由度のあるものだと思いたいが、はたしてこの国の人々はそれを〝選択〟と捉えることができるだろうか。まずこのスピード化の果てをちょっと考えてみること。そして同じスピードに乗っていては、ついていけない人がいるのは当然だと思えることではないだろうか。

 暖冬と言われるものの、朝方の冷え込みは厳しい。確かに平年を○度下回る、という朝があるが、そんな前日の夜の雪が解ける音を聞いていると、かつての夜ってどうだったのだろう、と思い出したりする。明確に思い出すことはできないが、夜遅くに雪の解ける音を聞くということはなかったように思うわけだ。そんな現実を認識しながら、気温の変化も、かなり急激でスピード化しているように感じるわけだ。自然界がどんどん人々の暮らしにあわせてスピード化し、自然そのものが人間の動きによって変化してきている、そんなことを思うわけで、「自然の力は大きい」とか「自然界は違う」なんていう言葉はまったく思い過ごしのように思えてくるが違うだろうか。確かに雄大な姿を見せている場所もあるだろうが、人間界から離れた場所での変化は、常にそこにいないと見えない。だからなにより自らの周りで自然と相対している人たちが、その変化をどれだけ認識しているか、ということになる。都会の真ん中、地方都市でも街中に身をおいていると、その姿はなかなか体感できない。
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リタイア感が地方を変える

2007-01-15 08:15:51 | ひとから学ぶ
 仕事重視の企業社会について「世田谷遺体切断事件から」で触れたが、企業ばかりがこんな社会にしたわけではない。大企業もない地方は、はてしなく彷徨っている。地方企業の多くは、大企業の部品製造などが中心になる。だから製品として人々の手元に届くような、そして印象の深い製品を提供しているようなものは数少ない。だから大企業の浮き沈みによって大きな影響を受ける。景気が良くなったとはいっても実感しない、ということをいい、とくに地方はまった実感を得られない、なんていうことを言う。ところが、地方の製造業が大企業の背景にある以上、明らかに仕事は増えているはずであり、口をつぐんでいて現実的には景気の良い人たちはずいぶんいるはずだ。まったく先が見えない状況にあるような職種が多く、加えて自治体の様子も良くないから、景気が良いなんて「言えない」という人たちもけっこういるに違いない。まさにそれが格差の一模様だろう。

 そんな地方の農村地帯であっても、「仕事が忙しいから」の一言で逃げの理由になると思っている人たちがずいぶんと増えた。生活が成り立たないのなら仕方ない、なんてまわりも気を使ってしまうほどお人よしになったが、やはり、社会生活を踏まえれば、すべての人たちで暮らしを補ってゆくという意識は継続していかなくてはならないだろう。にもかかわらず、地域活動は「できる人で」という考えは一般的になった。だからこそ、少し手間をかければ多くの人たちが手を貸してくれるはずなのに、依頼するのも面倒だから自分たちでやろう、なんていうことになる。地域活動はとくに多くの人たちに現実を認識してもらう必要がある。そこで暮らしてゆく以上当たり前の意識のはずなのに、逃げの口上は確立している。以前にも何度も触れてきているが、地域の役員にしても自治体のさまざまな役職も、誰にでもかかわれる環境が必要だろう。またその環境をサポートできる会社が、地域では必要なはずなのだが、それは「世田谷遺体切断事件から」でも触れたように、収益重視で地方の会社も成り立っている。地方も社会が成り立っていないのだから、まず日本中だめなのだろう。

 そう考えてくると、定年前にリタイアする人が多くなった今、格差は拡大しているといわれる。しかし、格差が拡大するほどに、銭のことは諦めてもっと違った価値観を持とう、とする人たちが増えるに違いない。そうすれば地方が変わって行くのかもしれない。けして財政的には好ましくないが、「だれでも同じ」ではなく、差があって当たり前という意識が人々の生活意識に変化をもたらせるように思うのだ。ただ、ひとつだけ言えることは、こと「子ども」がそこに介在すると、やはりそう簡単にリタイヤすることはできない。とすると、この世の中で平等な環境が必要だと誰もに感じさせる要因に「子育て」があることは否めない。その子どもがいないことで、多様な価値観が生まれるとしたら、やはり不自然であるわけで、子どもがいても、銭がなくてもまともな教育ができるどこかの国のような背景が必要なのかもしれない。
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消えなかった村②

2007-01-14 09:22:34 | 歴史から学ぶ
 平成17年3月31日、彦根市・豊郷町・甲良町・多賀町合併協議会は廃止された。1市3町での合併が模索されたわけであるが、破談となったわけだが、平成の大合併を彩る地図で見た際に合併されずに白いまま残っている地域は、けっこうこうした破談というケースは多いのだろう。滋賀県なんかは、ほとんどの地域で合併が進んだようだが、白く残る地域にはそうした背景がありそうだ。この1市3町の合併が破談にいたった理由をみてみると、平成16年2月に協議会として実施した市町村合併住民意向調査において、合併の基本的項目、住民サービスの内容、住民負担の内容、新市まちづくり計画の4項目について住民の意向を聞き、その上で1市3町か合併することについての住民に投げかけたものの、彦根市においてはすべての項目にわたって評価をもらえなかったという。それを踏まえて彦根市長が合併断念を表明したといい、ようはイニシアチブをとっていた彦根市の一人相撲だったのかもしれない。今回触れる甲良町においても合併協議会廃止の議案提案において、町が合併の必要性を彦根市に対して説明してきたのか、と問われたりしている。彦根市民が、あるいは市長も含めて合併は不要だ、という意識がどこかにあったのかもしれない。合併をしたいと思ってもできない自治体がけっこうある。ようは合併相手がダメというなら、数の上では喧嘩にならないわけだ。彦根市より面積の大きい多賀町を含むということは、けっこう広範な行政域へ変化するわけで、不安な面があって当然である。

 観光パンフレットからこの「消えなかった村」というテーマを展開しているのだが、実は甲良町単独のパンフレットは、これを集めた昭和55年ころにもらえなかった。単独のものがあったのかどうかも不明であるが、手元にあるパンフレットは、「湖東三山とその周辺」という3町共同のものである。その3町とは、愛知郡秦荘町、同郡愛東町、そして犬上郡甲良町なのだ。湖東三山とは天台宗の三山、百済寺(愛東町)、金剛輪寺(秦荘町)、西明寺(甲良町)のことをいう。近江文化の象徴とも言われる湖東三山。その三山がたまたま三つの町にまたがっていたわけだが、このパンフレットを見て思ったのは、きっと湖東三山といわれるほどの地域なんだから、今ではそれらは合併して一地域になっているのだろう、というイメージを持っていた。ところが、郡が異なるように、甲良町は現存する。その理由は冒頭に触れた通りだが、実は、合併後もこの三つの地域は自治体が別なのだ。愛東町は現在の東近江氏市、秦荘町は愛知川町と合併して愛荘町に変化している。それぞれが別の自治体として歩んでいるわけだ。もちろん、この地域のことを詳しく知っているわけでもないわけで、どういう地域性とつながりを持っていたかは知らないが、以前より湖東三山というイメージを持ち合わせていたわたしには、ちょっと意外にも思ったわけだ。パンフレットはB6版の変形で12ページ立てである。湖東三山を扱っているのだから、もちろん内容は、それぞれの寺のことである。そしてその周辺の古刹や民芸、自然を扱い、最後に略図を載せて締めている。その図だけ見ていると、やはり三者は鈴鹿山脈の西麓に展開する一連の地域のように見えてくる。

 甲良町は、面積 13.66平方キロ、人口 8,230人(平成18年4月1日現在)という。藤堂高虎(1555~1630)は、天文24年(1555)にこの地で生まれている。湖東三山のひとつ西明寺を訪れたのは、昭和59年の末である。本堂と三重塔は国宝で鎌倉時代を代表する建物。秋に満開になる天然記念物「不断桜」が知られているが、12月末であったがこのときまだ桜が咲いていた。

 ちなみに湖東三山のホームぺージがある。
  百済寺
  金剛輪寺
  西明寺

 消えなかった村①
 消えた村をもう一度⑮
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世田谷遺体切断事件から

2007-01-13 12:21:33 | ひとから学ぶ
 日常のごとくニュースに登場するバラバラ殺人。ブロードキャスターの「お父さんのためのワイドショー講座」のトップを争うような話題が次から次へと登場するから、数日前の事件は次々と埋葬されてゆく。いかに大事件であれば、トップの座を奪えるか、なんていう世界も奇妙な世界ではあるが、そうした報道、あるいはワイドショーが事件を求めているから、それらは絡み合うように世の中に君臨している。にもかかわらず、その舞台に登場する〝人間〟はどこまで演技を続けてゆくのか、すべてがこの流れで楽しくテレビ画面をのぞいていていいものなのか、とそんなことを思ったりする。

 不二家における期限切れ牛乳使用の背景について、信濃毎日新聞1/13記事において、新聞ではつぎのようなことを述べている。

 〝背景には、食品業界の厳しい環境がのぞく。人口減時代に突入し、国内市場の頭打ちは避けられない。売上高が伸びない中で生き残るためには、コスト削減に走らざるを得ないのが実情だ。しかも「売れない商品は一週間でコンビニの棚から消える」(大手飲料メーカー)。多様化する消費者の好みと合わなければ、たちまちはじかれる。短くなる商品寿命と反比例して、新たな商品を生み出すための開発費はかさみ、収益は厳しさを増している〟

 両者の事件をみると、どこかこの世の中の背景が見えてくる。ごく普通の優秀な若者が、バラバラ事件を引き起こすほどの背景に何があるんだと思うと、さまざまな要因はあるのだろう。それを概観からのぞいて大きな枠で捉えようとするわけではないが、なぜかそういう視点でしか見られなくなっている自分も、同じような社会に身をゆだねている証なのかもしれない。

 いわゆるワイドショーで触れている渋谷区の切断遺体事件。容疑者はどうにもならなくなった「夫」という置物を壊すことで解決しようとしたのだろうが、容疑者と被害者の背景をみるにつけ、この世の中が社会として成り立っていないことに気がつく。その社会を過去の社会と照らし合わせてみよう。かつての仕事はあくまでも社会、あるいは家庭とのかかわりの中にあった。だからこそ「生業」といえただろう。もちろん時代によって社会の変化があるから、かつてが「いつの時代」かといわれても一概にはいえないが、ある一部をのぞけば、日本中いたるところが今のような都会と同じような環境ではなかった時代と限定できるだろう。例えれば、第一次産業にの従事者が多かった時代、そして街中にも「商売」をする家業が生きていた時代なら、生業は生きていたはずだ。「生業」とは世渡りの仕事、家業である。「かつて」ではない今は、大方の人が会社組織に組み込まれて家業という姿からは程遠くなっている。個人個人の暮らしはあきらかに生業がなくては成り立たないのに、ひとたび家を離れると、まったく会社、あるいは仕事場で銭を稼ぐことだけが脳裏にこびりつく。そのための規律や制約、あるいは常識に洗脳されてゆく。そして、再び家庭へ戻ってゆく。この構造のどこにも両者の空間を結びつけるものはない。不二家事件の背景に記されているように、日々変化してゆくニーズを求めるがあまり、企業は〝人間〟をモノとしてみているだけであり、その背景にある家庭や地域という組織とは分離してしまっているのである。「モノ」として見ているから解決策として「斬る」ことで企業は先へ進もうとする。世の中すべてが、世田谷のバラバラ事件を繰り返しているのである。たまたま「人の命」という背景を重ねるからワイドショー化するのだが、世の中が切り捨て時代にある以上、まったく驚かない事件は、まだまだ続いてゆくのである。
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ニュースのお天気コーナー

2007-01-12 08:14:04 | ひとから学ぶ
 紅白歌合戦においては、DJ OZMA問題が話題となったが、毎年さまざまなゲストがたくさん登場してくるから、歌を聴くというよりも芸能大会のようなものだ。そんななか、NHKニュース7のお天気おねえさんの半井さんが、紅白スペシャル気象コーナーと題して登場した。見慣れた質素なお姿ではなく、よそ行きの衣装だったのが、ちょっといつもと違って違和感があったが、たしかにいつものニュース後半に登場してくるおねえさんの顔である。『週間文春』1/18号でも亀和田武氏が、このことについて触れている。半井さんは、〝オジサマ達の人気者〟といわれるらしい。しかし、7時代に半井さんの天気予報を見られる人は限られる。なぜならばオジサマ達と思われるサラリーマンは、仕事中、あるいは帰宅中で、なかなかその時間にテレビを見ている人は少ない。そんなことから、亀和田氏は、なぜオジサマ達の人気者といわれるのか不思議に感じたようだ。どうも「オジサマ達」ではなく「ジイサマ達」なのではないか、と解明している。

 わたしもニュース7の時間は仕事をしているから、半井さんの天気予報を見ることはない。しかし、定時に帰った時には、この時間帯はNHKのニュースをつけているから、たまにはお会いしていた。特別に意識したことはないのだが、初めて見たときに〝「半井」とかいて「なからい」と言うんだ〟とその響きがずいぶん印象に残ったものだ。それからというもの、金曜日自宅へ帰る道すがら、車の中の小さなテレビ画面に映る半井さんを毎週1日だけのぞいていたのだ。もっといえば、土曜日のニュース7で会えるのだろう、なんて思っていたのだが、実は土日は半井さんが登場しないのである。この2日間は山本さんという、また別のお天気おねえさんがやってくる。けして、とっても美人さんというわけではないのだが、質素な雰囲気のおねえさんが、本当に短い時間ではあるが登場してくる時間が「楽しみ」になるのも気持ちはわかるような気がする。

 TBSのニュース23が、9月ころメンバーが変わった。相変わらず〝歳をとったなー〟という印象で〝いいかげんに変わればよいのに〟と思う筑紫哲也はメインキャスターであるが、ほかのメンバーは総入れ替えとなった。女性キャスターはNHKのOBから同じNHKのOBに入れ替わったのだが、膳場さんは気品が高くて見ているこっちは気が引けてしまう。そんな雰囲気のなかで番組終了間際にHNKのニュース7と同じように、お天気おねえさんが登場してきて、ほんの数分、いやもしかしたら1分程度かもしれないが天気予報を言ってくれる。「こんな程度しゃべるだけなら、草野満代が天気予報をしゃべればよいのに」なんて以前は思ったものだ。ところが総入れ替え後には、お天気おねえさんがいないのだ。その時はまさかこの年増の山本○○が代わりか・・・なんて思っていたら、いきなり画面から消えてしまった。以前は「こればっかのためにわざわざお天気キャスターいなくても良いじゃないか」なんて思ったものの、いなくなった途端に、この僅かな時間におねえさんが登場して天気予報を言ってくれるのがなんともいえない癒しになっていたんだ、と気がついたわけだ。

 なんでもないことなのに、何度も繰り返して見ているうちに、知らず知らず意識の中に入ってきていた、そんな感じなのだ。でも亀和田氏は、最後に〝盛り場のデパートや巣鴨のとげぬき地蔵は、元気いっぱいの<オバサマ達>であふれている。街に繰りだす気力もない男たちが、ぼんやりテレビを見ている。そう「NHKニュース7」の気象コーナーは、さみしい爺さんたちの巣鴨・地蔵通りだったのだ。〟と書いている。まいったなー、わたしも既にジイサマなのか・・・。
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温暖化の現実的な話

2007-01-11 08:11:12 | 自然から学ぶ
 世の中の流れに、なかなかついてゆけなくなった、と実感することは、歳を重ねるとますます多くなる。加えて買い物が好きではないし、ものを買うということに興味を示すほど、銭の余裕はまったくない。かつて行動していた場面に、久しぶりに身をゆだねてみると、周りに同じような視点でいる人たちの雰囲気が変わっている、なんていうことはよくある話である。そして、必ずしも世代が違っているわけでもないのに、顔が大きく変化したわけでもないのに、自分だけがどこか昔から前進していないことを認識してしまう。そんなことがあると、もうこういう場所には自分の足を踏み入れる場所はない、なんて思ったりして、どんどん後ろ向きになってしまうが、仕方ないことである。

 話は変わるが、近年けっこう雪は降るのだが、自らが着ている服装に変化がある。昔買った冬の服が、冬中タンスの中に納まったまま、春を迎えてしまうのだ。たまに使ってみようとタンスを開けていると、妻が言うのだ「1回きり着るんだったら、何度か着ている服にして」と。だいたいそう言われるのは、セーターを着ようとした時である。ウール100%となると、1回着てもクリーニングに出さなくては、次のシーズンに備えられない。だから1回きりの利用だったら「止めて」ということなのだ。なんと貧乏性なのか、と思われるが、それが事実だ。だいたい、ずいぶん昔のセーターなんかを何年もタンスに眠らせていることじたい、貧相な話に聞こえる。まあめったに着ないから、良いものを買って、使うときだけ使う、というスタンスは、貧乏人がそこそこの値打ちものを利用する策ではある。

 と、そんな貧乏性の話は余談であって、そんな1回使うかどうか程度のセーターを、かつて何着も買ったものだが、近年はまったく利用しない。かつて使っていたころは、どんな服装をしていたのか、と思い出してみると、今とさほど変わりなく、セーターだけよけいだったのだ。そう考えると、歳をとって寒さを感じなくなったのか、ということになってしまうが、つまるところセーターを着るほど寒くなくなったということではないだろうか。そんな地球温暖化の現実を身をもって感じているのだが、先日あまり足を運びたくないイーオンに行って下着売り場をのぞいた。するとウォームビズ向けというコーナーがあって、温かそうな下着が何種類も並んでいるのだ。むかしのラクダの股引なんていうのと違って、若い人にも受け入れられそうなタイツを売っているのだ。現場に出ることの多いわたしなんかには、ちょっと気になる下着なのだが、さすがに値段がいい。欲しいな、と思っても考えてみれば、セーターも利用しなくなったほど、世の中は温暖化で暖かくなっている。そこまでして寒さ対策をするほどでもないか、と思って手を出すことはなかった。世の中、技術的な進歩もあって、さまざまな障害に対しての策は、金さえ出せば何でもある時代になった。でもこと寒さ対策に至っては、これほど地球が温かくなっているのに、みんな気を使いすぎ、いや、商売に乗っかっているのか宣伝文句が多い。家の構造なんかもまさにその策にはまっている。いかにお客さんを増やすか、ということになると、どうしても人間は退化してゆくような路線に乗ってしまう。温暖化傾向なんだから、違うところに目を向けるべきかな、なんて思うのだが、身にしみることにどうしても目は行ってしまう。仕方ないか、とは思うが、よーく考えてみると、そんなに気にすることはないのに、と思う事がらは多い。
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アニマルトラックから解ること

2007-01-10 08:15:00 | 自然から学ぶ
 積雪があったから、まだ足跡がない山の中をちょっとのぞいてみる。ふだんあまり見ることがない獣たちの足跡が、こうした雪の上にはたくさん現れるものだ。そして土の上とは違って。広範囲な動きまで確認できる。だから素人でも、獣たちの動きがなんとなく見えてくるものなのだ。雪の上を足跡を追ってしばらく歩いてみるのも、暇な時はけっこう楽しい時間になる。写真は規律よく前足と後ろ足が一定の間隔を保っている。雪が多いため、はっきりした足跡が見えなくて、何の足跡かははっきりしなかった。でもこれだけ一定しているとなると、意外に犬だったりする。



 同じ日場所をちょっと変えて道端で発見した足跡が、下記のものである。これもまた足跡がはっきりしていないのだが、それは足跡がついたあとに雪が舞っていて足跡の上に少し重なっているからだ。しかし、この特徴ある足跡は、少しくらい雪が積もってもはっきりとわかる。サルである。ニホンザルの場合自分の手のひらを見てみればわかるように、親指が開いて映る。そして、人間の手の平は指先も手の平も幅はそう変わらないのだが、サルの手の平は手首の方に向って狭まってゆく。だから鳥のように手首側が尖って映る。小さくて明らかな獣のこういう足跡は、ニホンザル意外にこのあたりでは見られない。

 さて、この足跡を探ったあたりは、毎年雪が降ると訪れている。山つけというよりは、すでに山の中といってもよいような場所であって、加えて集落がそうした山間に入り込んでいるような場所は、獣の行動を見るにはうってつけな場所である。その年の様子はどうなのか、という視点で見ることができる。今回、そうした定点観測とまではいかないが、それに近い視点で足跡を見てみたのだが、気がついたことがある。ノウサギの足跡がまったく見られないのである。数年前によく訪れた際には、サルやタヌキといった足跡に比較して、あきらかにノウサギの足跡が多かった。にもかかわらずノウサギの足跡が見られないわけで、今年に限ってノウサギが少ないのか、あるいはノウサギが減ってしまったのか、そのあたりはよくわからない。ノウサギが減っている、なんていう見出しをどこかで見た覚えもあるから、実際減少しているのかもしれない。また日をおいて、この場所で足跡を確認してみたい。

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ラグビーの思い出

2007-01-09 07:59:18 | ひとから学ぶ
 高校ラグビーの頂点に、東海大仰星が立った。ラグビーのことはあまりわからないが、高校時代には授業でラグビーをやったくらい、長野県内では少し盛んな地域に育った。とはいえ、それほど興味のない者にとっては、やっていても楽しいという気持ちにはなれなかった。たまたまその際の体育の先生は、当時長野県のラグビー協会の理事をやっていて、高校ラグビーの決勝戦の中継では解説者だった。そんなこともあってか、体育の時間に盛んにラグビーをやった覚えがある。「つまんない授業」とは当時の感想であったが、今や妻の実家の稲刈や脱穀といえばそのつまらない授業をやっていた先生といつも一緒に働いている。実は妻のおじさんなのだ。

 それはともかく、その当時からよく思っていたのは、ラグビーほど力の差が歴然としている競技はない、という印象である。今年の全国高校ラグビーもそうであるが、スコアから少しその意図を追ってみる。長野県代表の岡谷工業は、このところの常連校である。ラグビーそのものをやっている高校が少ないから、限られてくるのだが、それでも何校か有力校はある。そのなかでも常連になるということは、県内では圧倒的な強さがあるということである。にもかかわらず、全国に行けば、あまり名も聞かない高校に0:24で負けた。岡谷高校に勝った相手は、2回戦に7:41で負け、さらにそこに勝った相手は準優勝だった東福岡に0:62で負けたわけである。この準々決勝までの得点を加算してみると、負け側ブロックは総得点7に対して、勝ち側の総得点は24+41+62=127となる。これは珍しいことではなく、高知県の土佐塾は、1回戦で東海大翔洋に0:98で負け、その翔洋は優勝した仰星に0:38で負けている。これを負け側と勝ち側の総得点で対比すると、0:136となる。ラグビーでは、完封で大差で勝ったチームが、次の試合で同じようにして負ける、ということがよくある。そして頂点に立てばよほど強いのだろうが、まだまだラグビーの世界での日本の力は弱い。

 とまあ、ある意味番狂わせのない競技だけに、観る側にも期待感がなくていけない。そんな見方をしているのは素人なのだろうが、素人だからこそ、期待したいことがたくさんあるのだ。興味のない人は、スクラムを組んでぐちゃぐちゃやっている姿を見て「面白い」と思う人はそうはいないはずだ。体力勝負だから男らしいスポーツだが、自ら授業で経験していても、楽しさはわからなかった。
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年賀状の届く日

2007-01-08 09:30:23 | ひとから学ぶ
 新年も何日も経過して、ようやく年賀状をいただいていない人で、出さなくてはならないと思っている人へ年賀状を用意している。「年賀状」でも触れたように、元旦の早々に年賀状が届いて、その返事を書くことで年賀状の第一歩が始まった。いっそ遅くなったから、とりあえず来た年賀状に返事を書いていたが、そろそろ正月も遠のいて行きそうなので、必要な分は出すことを決めて用意をした。とはいえ、おおかた届けられているから、今になって書く年賀状は数枚である。2年も続けてこんなのんびりしたことをしているから、こちらが出した出さないに限らず、届く年賀状は明確になっている。

 年賀状といえば、年末に用意していると、「この人にはもう出すのを辞めようか」なんていう具合に悩む経験は、誰にもあるだろう。今が前向きでないわけではないが、年賀状に期待するものもないから、減ってくれればよい、程度にいい加減になっている。だから今ごろまで年賀状の用意をしているのだが、さすがに明確になって気がつくのは、一時の半分にまで枚数が減っていることだ。多かったころには、会社も景気が良かったためなのだろうが、人員整理が始まると、かつての付き合いは減少するのは当たり前だ。加えてプライベートな付き合いでも年配の方たちとの縁が多かったこともあり、高齢で亡くなられた人たちも多い。自ら歳をとっているのだから、若い人たちとの新たな付き合いがなければ、年賀状のやりとりが減るのは当たり前だ。

 ということで、2年間の消極的な年賀状準備でだいたいの付き合いの様子が解った。意外にも子どものころからの友人たちの何人かから年賀状が来なくなったことに気がついて、ちょっとショックな気分にも陥っている。

 昨年の年賀状が届いた、なんていう新聞記事をいくつか見たが、だいたいが郵便局で昨年の年賀状を保管していることもないだろうから、差出人が間違えて昨年もらった年賀状を今年の年賀状と一緒に投かんしてしまった、というのが実際の話じゃないか、とそんなことを思う。年賀状に限って郵便局の受付印が押されない。だから使用済みなのかそうでないのかも見ただけではよくわからない。だからたくさんの年賀状に紛れ込めば、昨年も今年も区別はつかない。わたしは違うが、けっこう多くの人が、昨年の年賀状を見ながら返信するようにその年の年賀状を準備する人は多いはずだ。だからこそ、まぎれてしまっても何ら不思議ではないのだ。そんなことを思いながら、届いた年賀状を見ていると、妻のところに昨年の年賀状が届いていた。文の内容が今年の内容だから、けして新聞記事に載るような事件ではないが、年賀状の差出人は、①間違えて昨年の年賀状の余りを利用したのか、②解っていて昨年の年賀状を利用したのか、③昨年の年賀状を郵便局が間違えて売ったのか、定かではない。

 さて、妻は昨年の暮、30日に年賀状を出したという。どこで投函したかは知らないが、同じ町の友人のところに1/2に届いたという。今年は郵便局のアルバイトが不足している、なんていう報道もされていたが、同じ地域なのにずいぶん届くのに時間を要した。妻などは「よほど手が足りてないんじゃないか」などと言っている。あらかじめ投函しておいて、元旦に来る年賀状を見て、「この人に出してない」と思って慌てて年賀状を書くのはみんなやっている。ところが元旦ならともかく、数日後に届く年賀状を見ると、「この人はわたしの年賀状を見て返信したのだろうか」ということを考えるようになる。当然、出してないのに返事をした、ということになれば、相手は出すつもりがなかったということで、そういう人へ年賀状を出すのは来年は辞めよう、なんていうことになる。そんな意味でも、かつては一生懸命年末のうちに用意をしたわけだ。ところが、年賀状をあきらめムードで準備するようになって気がついたのは、こちらが出してないのに、ずいぶんと遅くに届けられる年賀状があるということだ。松の内も過ぎるというのに、年賀状が届くのだから、「この人いつ投函したんだろう」なんていう心配をしてしまうわけだ。やはり受付印が押されていない、というのがそんな思いをさせる。2000年だっただろうか、少し前にその年だけ受付印が押された年があったが、やはり受付印があるといいのだが、確かその年には、元旦を過ぎても元旦の日付が押されていたように思う。そんな受付印のことがあって、一度年賀切手を利用して年賀状を出した年もあった。

 というように、けっこうこの受付印にこだわっていたわたしではあるが、最近はそんな気持ちもまったく消え去ってしまっている。
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ウチのヨメ

2007-01-07 11:15:18 | ひとから学ぶ
 知人のブログで、以前「最近芸能人や投書などで、夫が妻を特定する時の呼称として、「嫁」といっているのが多く、気になります」という文を読んで、確かに最近そういう呼び方をする人がけっこう身近にもいる、と認識していた。さきごろニュース番組で、年末の様子を街頭で聞き取る場面があって、中年のおじさんが「ウチノヨメ」という表現をしているのを聞き、かなり一般的な言葉になってきているんだ、とあらためて認識したしだいである。知人のブログでも説明しているように、本来は父母など自分より上の世代が嫁入した女性をさした名称だったはずだ。誰が使い始めたのか知らないが、どうも「ウチノヨメ」という言葉を日常的に芸能人かなんかが使ったのか、マンガなんかから出てきて一般化してきたのだろう。

 わたしも結婚してもう20年近くなるが、結婚当初は妻のことを何と呼ぼうか、と悩んだものである。今でもあらためて何と呼んでいるのか、なんて聞かれると困ってしまうくらいだ。お互いの中では「オイ」とか「オカアサン」、妻からはやはり「オイ」とか「アンタ」とか「オトウサン」なんていう、かなり昔風な雰囲気が漂っている。正直いって名前で呼んだことは一度もない。一時は他人に家のことを話す際には、「うちのヨメサン」というような言い回しをしていたのだが、もう10年以上にもなって「嫁さん」もないだろうと、しだいに「うちのカアチャン」になっていった。いまではすっかり「うちのカアチャン」が定番である。ブログ上では「妻」なんて書いているが、本当は「カアチャン」でも良かった。しかしながら、読んだ人が「母」と勘違いしてもいけないし、もっとも間違えないわたしとの関係、という考えからゆけば、結局「妻」に納まったわけである。しかしながら、他人に「うちのカアチャン」と表現していても、時として「母」と勘違いされているかもしれない、なんてしゃべりながらも不安に陥っていることもたまにある。でも、人との会話なんていうものは、どれほど私が勝手にしゃべっていることを相手が覚えているか、なんていうことは怪しいものだから、そんなことどうでも良いだろう、程度にわたしは気楽に考えている。

 でもあらためてテレビで一般人が「ウチノヨメ」なんて言っていると、確かに言葉尻から「妻が自分の支配化にあることを他者に対して表明しようとしている」ようにも聞こえてくる。
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合併と住所表記

2007-01-06 09:56:01 | ひとから学ぶ
 面倒くさいながらも、なんとか書いている年賀状。あて先を書きながら思うのは、長ったらしい住所は勘弁して欲しい、ということである。とくに合併後は、比較的○○市と始まるから、今までのように郡を書く必要はないが、最近は郵便番号がそこそこ細かくなっているから、いきなり町村も町村名から始めることにしている。だから、市になったからといって市を省略しても郵便は届くのだろうが、それでもいきなり自治体名なしの地域名から入るのはためらう。だから○○市と、市の名称くらいは書いている。だから、長ったらしいのは辞めて欲しい、と思うわけだ。

 いつごろかは忘れたが、静岡県の沼津市が住居表示を変更して、わりかし短い住所表示になった時があった。記憶にないくらい昔だから、もう30年近く前のことだと思う。知人が沼津市にいて、それまでの住所表示は忘れたが、変わった時にずいぶんすっきりした、という印象があった。現在でもその表示は変わっていないが、沼津市○○町○○といった具合に、ずいぶん短い。ところが、最近合併した地域の住居表示は長い。たとえば安曇野市穂高北穂高○○○などは、ただでさえ市の名前が長いし、旧町村名を入れているから同じような地域名を重ねて書くことになる。まだアパートかなんかに暮らしている人でなければ、ふたつ三つ字が多いだけかもしれないが、やたらと地域の名前の下が長かったりすると、書ききれなくなる。おそらく、住んでいる人だって、同じ地域名を繰り返したりするのは、そのうちに面倒くさくなること必死である。

 こういう場合、旧町村名をどうしても残すからこういうことになる。最近、わざわざ旧町村名を残すように合併後にまたまた変更した話をよその県で聞いたが、冷静に合併を考えてほしい。確かに旧町村名がなくなることは寂しいかもしれないが、合併するからにはそんなことにこだわる必要があるのか、と思うわけだ。むしろ合併で白紙から始めようくらいの気持ちがあれば、そんなことにこだわることはないはずだ。安曇野市なんかには、前例と同じように地域名を繰り返す住所表記が多いようだ。もともと○○町○○という部分の○○が町名と同じ繰り返しになるケースは多い。いわゆる大字名が町名とか村名になっているとそうなるし、またそういう地域がその自治体の中心であったりするから、けっこう人口もそんな表記をされる場所が多い。「安曇野市北穂高」で良いと思うのだが、こだわりは煩雑さを現す。そう思っていろいろ年賀状を見ながら考えていたら、中野市上今井○○○という表記があった。ここには合併前の村名が消えている。旧豊田村の上今井なんだが、市名のあとにいきなり上今井と始まる。豊田村の場合、豊田という地名がないから、おそらく「中野市豊田」という住所はないのだろう。まさに村が消えてしまったわけで、残念がる人もいるだろうが、いさぎよくてこのくらいさっぱりしている方が良いと思うがどうだろう。
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年代格差をどうみる

2007-01-05 14:21:19 | ひとから学ぶ
 〝ウィークリーいいだ〟(飯田市高羽町週刊いいだ編集室)という無料配布される新聞の元旦号の投稿欄に、こんな投稿があった。「団塊の世代の定年が始まる2007年、海外旅行や高級車が売れ始めているそうです。パート社員の私にとっては退職金などあるはずもなく、定年を向えたところでぜいたくな暮らしになるどころか先々不安でなりません。思えば青春時代、私よりちょっと前に生まれた団塊の世代の人たちの、ヒッピー族やフォークソングなどにずいぶん影響され、安易な生活を送ってしまった結果なのでしょうが・・・。また再びこの人たちが世の中に影響を与えているんですね。なにかにつけてすごい世代だと思います。」

 というようなものである。的を得ている言葉を聞いて、そう考えるのなら、この一時の時代、世の中は少し動くぞ、と思うとともに、それによる悪影響をすぐに考えてしまうのが、わたしの悪い癖である。

 ただでさえ、年寄りは暇で銭を持っている。もちろん全員ではない。いわゆる会社勤めをしてしっかりと年金をもらったり、あるいは退職後も仕事をして有意義に暮らしている人たちを対象に言っている。田舎でほそぼそ農業をやっていた人にはとても同じ環境はないから、「格差時代」とはいうがそれこそ格差が歴然と浮き出てくるように思う。昔父が、よくこんなことを言った。「老後のことを考えて厚生年金に入っておけばよかったのに、そういう機会に会社が導いてくれなかった」と。いわゆる農業の片手間のようにはじめた手仕事が、現金収入の重要な位置を締めるようになるとともに、農業が副業的な存在となっていった過渡期に、父は働きに出始めた。だから、そのまま厚生年金に加わらなかったため、退職後も国民年金に頼るしかなかった。今の大方の人たちのような年金による恩恵は受けられなかったわけである。おそらく会社でも厚生年金に入ったらどうか、ということを投げかけたことはあるのかもしれないが、会社も、また労働者も、具体的な年金の姿がまだ見え難かった時代だったのかもしれない。とくに農村で農業から別の仕事に現金を頼り始たころだから、父の世代にはそんな損な役目にあった人たちはけっこういたに違いない。だから、年金をたくさんもらっている人たちに対して、愚痴をこぼすことはよくあった。

 暇で銭もあるとなれば、何でもできる。まさに「余生を楽しむ」という世界である。こんなことを言うと、その世代、あるいは年配の方たちには批判を受けるだろうが、若い人たちが年金の補償もなく、さらにはまともな給与、そして仕事も持ち合わせないような環境を作ってきたのは、まさにそうした人たちのせいだと、わたしは言いたい。ことに団塊の世代といわれる人たちが退職することにより、年金世代がどういう暮らし振りをするかで、この国はもっと若者にとってつらい時代がくるような気がしてならないわけだ。だからこそ、そんな世代を対象に「田舎に住みませんか」と受け入れを積極にやっている自治体のやり方は賛成できないのだ。田舎は壊滅的な打撃を受けること確実である。ますます田舎に若い人は目を向けることはないだろう。
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道端の家

2007-01-04 09:45:24 | ひとから学ぶ
 12/29発行の月刊「かみいな」という新聞の投稿欄に、次のようなものがあった。

 私の家は国道153号線沿いです。今道路の表面をけずっていて、マンホールが飛び出た状態です。新しく舗装し直すのでしょうか。車が通るたびに震度3~4くらいの揺れに悩まされています。何しろ築60数年の古ーい家なのです。息子じゃないですが、〝ウチを壊す気か〟と叫んでいます。早くどうにかしてください。

 という辰野町の方のものである。この投稿に目がいったのは、国道153号を頻繁に通っているということもあったからだ。気になるのは、「舗装をし直すのでしょうか」というところで、道路沿線に住んでおられるのに、何の工事をしているか認識されていない人がいる。いまの時代だから、工事をするとなれば周辺住民への説明はされている。にもかかわらずこうした投稿があるというところに、①説明がされていないのか、②家族の誰かは知っているが、他の者には伝えてないのか、③知ってはいるが苦情をなかなか言えないという、内面の言葉なのか、などと考えてしまうわけだ。

 わたしの実家の近くの国道153号線でもバイパスができるといって、周辺の住宅が何件も移転して、風景が変わっている。「こんなに広く用地が必要なんだ」などと思うほど、予想以上の幅が確保されている。そこにあった家は、近くに立派な姿を見せている。このごろの道路建設に伴う移転ともなると、たいがいの家は立派になる。「たくさん補償をもらって・・・」などと妬まれないともかぎらないほどに、立派になるから、ちょっと違和感すらある。

 たびたび通る信州新町の国道19号線沿いに、道からすぐのところに家が建ち、玄関先がすぐ国道、なんていう家並みも時にはある。現代の道路拡幅と、かつての道路拡幅をくらべれば、明らかに環境に差がある。簡単にいえば「補償の差」ということになるのだろうが、かつては、道路を広げるにも、必要最小限の用地補償に限られたのか、道の際に家がそのまま残っているケースはよく見られる。いや、よく見られるというよりも、ほとんどがそういう環境にある。拡幅に伴って大きく空間をとるような拡幅改良が行なわれるようになったのは、地方ではそう昔のことではない。自動車を一人1台持つような時代を想定していなかったのかもしれないが、これほど自動車が多くなれば、沿線に住む人には、その影響は大きい。とくに道端に玄関先を持っている人にはたまらないわけだ。今でこそ冬タイヤはスタッドレスになったが、スパイク時代にはホコリや泥で大変だったのだろう。その割にはそんなことを大きな声で騒ぐ人は、そういなかったように思う。そうした人たちの苦痛の上に、他人は道を往来していたわけだ。

 そう考えれば、現在のように大きく空間をとって家々を移転させてゆく方法は、後々には問題もなくベストと言えるのだろうが、では、かつてその空間を提供した人たちは、一生その苦痛を背に生きてゆかなくてはならないのか、とそんなことを思ったりするわけだ。ことにその大きな補償の差に、そうしなくては移転の同意が得られない、というカードが見え隠れしていて、この世の中は、結局は銭勘定のなにものでもない、ということを強く感じるわけだ。そう言う意味では、そうした環境にある人たちを救う意味で、新規のバイパスというものは意味あるものなのかも知れないが、といってもすべての人たちが解消されることはまずない。道が通ることで立派になった家を見るほどに、妬みがそこに生まれても何も不思議ではない、と思うとともに、地域社会はそんな点からもほころんでいるんだと気がつく。環境影響調査のようなものも行なわれている事業もあるようだが、果たして人々の暮らしに影響する〝こころ〟の問題を視点として持ち合わせているかは疑問である。確かに貴重動植物を残すことも意図はわかるが、人よりも動植物の方が大事だ、なんていう動きがあることが残念でならない。
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消えた村をもう一度⑮

2007-01-03 12:59:50 | 歴史から学ぶ
 離島を除くともっとも全国で小さな村として知られていた富山村は、北設楽郡にあった。天竜川右岸の長野県境にあったこの村は、対岸に静岡県水窪町が望め、愛知県の中心からもまさに遠い位置にあった。愛知県そのものがどちらかというと、岐阜県や三重県に寄った位置に中心があるから、東の端っぽのこの村は縁遠い場所というイメージがあったに違いない。村の面積も小さく、どこを見ても山ばかりである。北には県境を越えて長野県下伊那郡天龍村があり、西から南にかけては同じ北設楽郡の豊根村があった。天竜川の佐久間ダム建設とともに、川底に沈んだ集落があって、小さな村はそんな環境から生まれた。手元にある昭和56年の村政要覧によれば、人口227人、世帯数73ということで、いかに小さいかがわかる。わたしが現在住んでいるが戸数80戸ほどだから、それよりも少ないのである。それで一つの自治体を作っていたというのだから、考えようによってはすごい話である。人口の推移というものもあって、それによると、1448年が約150人といい、明治以降に増えて大正9年のピーク時は1496人だった。要覧に「村の最長老」のコメントがあって、一番の思い出は佐久間ダムによる水没だったという。昭和22年に1073人あった人口は、ダムによる水没後の昭和35年には654人に激減している。以降減少を続けることとなるわけだが、交通の便からいっても、なかなか打開策のない地域であることはよその者にも予想できるわけだ。愛知県の中では東の端ではあるが、名古屋市まで直線で100キロ弱ということで、さすがに長野県の距離感とはくらべものにならないが、現実的にはこのごろの合併によって対岸は浜松市となっているわけだから、交易圏的にはどこが理想の地域なのか、住んでいる人たちがもっともわかっていることなのだろう。ちなみに高校は、自宅通学生の大半が静岡県立佐久間高校へ、稀に愛知県立の高校や長野県立阿南高校への進学する者がいるという。

 冒頭の「まれびとの里 富山」というパンフレットは、昭和58年に作成されたものである。

 前述のパンフレットでも触れられているが、この村では「大谷のみ神楽」という祭りが正月に行なわれている。愛知から長野の県境域には同様に古くから伝わる民俗芸能が伝承されていて、独特な地域を作っている。そんな意図があるのかわからないが、広域圏で作成されたパンフレットがけっこう多い。下記のパンフレット「信州 三河国境の村」は、富山村、阿南町、天龍村、売木村、豊根村という2県にまたがる5町村共同で作成したものである。長野県内を見渡した際に、県境を越えた地域と広域的に観光パンフレットを作成している地域は、この伊那谷の南部をのぞくとほかの地域では例を見た覚えがない。それだけこの地域が越県した地域と密接なつながりを持っているということがいえるだろう。このパンフレットは年代は不詳だが、おそらく冒頭の村のパンフレットと同じころのものと思う。現在観光拠点のひとつとなっている阿南町や天龍村、そして売木村の温泉施設の名は登場しない。まだまだ山の中の過疎地というイメージが強く、多くの観光客を迎えるという地域ではなかった時代のものである。いや、今もその状況にはなっていないのだろうが、前述の温泉施設の開業とともに、中京方面からの観光客は明らかに増えている。B2版を三つ折にしたパンフレットの1/4は、この地域の民俗芸能を紹介している。「民俗芸能のルーツを訪ねて」というページには、この祭りの写真が展開されている。

 さて、この富山村は、平成16年11月27日に隣村の豊根村と合併して新豊根村となった。合併しても小さな村であることに変わりはないが、いずれさらなる広域圏への合併も余儀なくされるのかもしれない。いっぽうの長野県側は、今も変わらず自立の方向である。なかなか合併しようにも立地上から難しい、という面もあるのだろう。



 要覧の裏表紙に当時の小学6年生が「私たちの村」という文を掲載している。「(前略)この村のいいところは、学校の生徒が少ないので、先生がしっかりわかるように教えてくれることです。よそでは、ちょっとでもできないと、おいていかれるけれど富山は、そんなことがないからです。その反対に困るところは、どこへ行くにも電車がおもで、時間がかかるので、いやだなあと思います。豊橋に行くだけで、3時間近くかかります。電車に乗るだけで、つかれてしまうからです。わたしは夢だと思うけれど、将来、お店がたくさんできて、交通の便もよくなり、もっと人口がふえるといいと思います。」というもので、この文を書いた女の子も、今ならもう40歳くらいになるわけだ。その後村に残られているのか、どこかへお嫁に行かれたのか、とそんなことを思いながらこの要覧の奥深さを感じているわけだ。パンフレットとともに要覧をセットでのぞくと、当時のことも含めて、平成の合併がどういう結論だったのかが見えてきたりするわけだ。

 消えた村をもう一度⑭
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年賀状

2007-01-02 11:01:31 | つぶやき
  この年末も年賀状の用意もできず、今年は年賀状を辞めようか、などと思っていたが、元旦に配達された年賀状を見て、年賀状モードに入ってしまった。どんなに簡単な年賀状でも何枚も書くとなると容易ではない。もらった年賀状を見れば、このごろはあて先もほとんどがワープロで印刷されている。裏も印刷ならほとんどそのまま出せる。そんなこともかつてはやったが、それすら面倒くさくなっている。あらかじめ出す用意をしていれば、あて先順に印刷してゆけばよいのだが、とりあえず元旦に届いた年賀状に返信しなくては・・・、と思うからそういうわけにはゆかない。とすれば、なかなか宛名まで印刷するに至らない。

 ということで、あて先は手書きである。ところが、どういうことか、宛名を書いていても字を間違えるのだ。ササッとすばやく書いてしまおうと思って書くと、線を一本忘れたり、字そのものを間違ったりする。明らかにボケたのか、と思うほどに今までと違う。考えてみれば、このごろは字を書かない。だから実際の字の形を忘れがちである。加えて手先を使わないのだから文字を書く感覚が遠のいてしまっている。仕事上でメモ書きなどをするわたしでさえこんな状態なのだ。ワープロをすぐに使いたくなる人の原点に、「字を書くことが苦手」というケースが多い。文字がきれいな人はよいが、へたくそな人にとってはワープロは好都合である。へたくそなところが見られないからだ。そういう意味ではバランスとかイメージといった点が表現方法になるのだろうが、文字そのものはなんら人とは変わりなくなる。味気ないとはいうが、面倒くさい人にとってはそんなことはどうでもよい。ただ、わたしのように字が書けなくなっている人も少なくないだろう。

 子どもたちは字を書いていて、昔となんら変わりがない。ところが、中学とか高校と進学していけばゆくほどに文字を書かない。昔なら一生文字を書いたわけだが、そんな常識は大きく変化している。字を忘れる、ということだけではなく、手先を使わなくなるということへの不安感がある。文字を書くことにくらべれば、コンピューターの画面を見つめる方が、老眼には優しい。ところが現実的には視力は低下してゆく。とすれば、しだいに手先も見えなくなるし、そういうことがしたくなくなる。むしろ字を書けなくなることよりも、そういうことの方が心配なことである。

 そんなことを思いながら、なんとか元旦の年賀状の返信を今準備している。息子が学校で作ったてん刻の「謹賀新年」を押印して、少し手づくり風な空間を持たせながら、なんとなくではあるが義務を果たしている。あらためて年賀状を用意するのも時間のかかることだと認識しながら、まだこれから届けられるであろう年賀状のことを思うと、頭が痛い。
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