Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

世田谷遺体切断事件から

2007-01-13 12:21:33 | ひとから学ぶ
 日常のごとくニュースに登場するバラバラ殺人。ブロードキャスターの「お父さんのためのワイドショー講座」のトップを争うような話題が次から次へと登場するから、数日前の事件は次々と埋葬されてゆく。いかに大事件であれば、トップの座を奪えるか、なんていう世界も奇妙な世界ではあるが、そうした報道、あるいはワイドショーが事件を求めているから、それらは絡み合うように世の中に君臨している。にもかかわらず、その舞台に登場する〝人間〟はどこまで演技を続けてゆくのか、すべてがこの流れで楽しくテレビ画面をのぞいていていいものなのか、とそんなことを思ったりする。

 不二家における期限切れ牛乳使用の背景について、信濃毎日新聞1/13記事において、新聞ではつぎのようなことを述べている。

 〝背景には、食品業界の厳しい環境がのぞく。人口減時代に突入し、国内市場の頭打ちは避けられない。売上高が伸びない中で生き残るためには、コスト削減に走らざるを得ないのが実情だ。しかも「売れない商品は一週間でコンビニの棚から消える」(大手飲料メーカー)。多様化する消費者の好みと合わなければ、たちまちはじかれる。短くなる商品寿命と反比例して、新たな商品を生み出すための開発費はかさみ、収益は厳しさを増している〟

 両者の事件をみると、どこかこの世の中の背景が見えてくる。ごく普通の優秀な若者が、バラバラ事件を引き起こすほどの背景に何があるんだと思うと、さまざまな要因はあるのだろう。それを概観からのぞいて大きな枠で捉えようとするわけではないが、なぜかそういう視点でしか見られなくなっている自分も、同じような社会に身をゆだねている証なのかもしれない。

 いわゆるワイドショーで触れている渋谷区の切断遺体事件。容疑者はどうにもならなくなった「夫」という置物を壊すことで解決しようとしたのだろうが、容疑者と被害者の背景をみるにつけ、この世の中が社会として成り立っていないことに気がつく。その社会を過去の社会と照らし合わせてみよう。かつての仕事はあくまでも社会、あるいは家庭とのかかわりの中にあった。だからこそ「生業」といえただろう。もちろん時代によって社会の変化があるから、かつてが「いつの時代」かといわれても一概にはいえないが、ある一部をのぞけば、日本中いたるところが今のような都会と同じような環境ではなかった時代と限定できるだろう。例えれば、第一次産業にの従事者が多かった時代、そして街中にも「商売」をする家業が生きていた時代なら、生業は生きていたはずだ。「生業」とは世渡りの仕事、家業である。「かつて」ではない今は、大方の人が会社組織に組み込まれて家業という姿からは程遠くなっている。個人個人の暮らしはあきらかに生業がなくては成り立たないのに、ひとたび家を離れると、まったく会社、あるいは仕事場で銭を稼ぐことだけが脳裏にこびりつく。そのための規律や制約、あるいは常識に洗脳されてゆく。そして、再び家庭へ戻ってゆく。この構造のどこにも両者の空間を結びつけるものはない。不二家事件の背景に記されているように、日々変化してゆくニーズを求めるがあまり、企業は〝人間〟をモノとしてみているだけであり、その背景にある家庭や地域という組織とは分離してしまっているのである。「モノ」として見ているから解決策として「斬る」ことで企業は先へ進もうとする。世の中すべてが、世田谷のバラバラ事件を繰り返しているのである。たまたま「人の命」という背景を重ねるからワイドショー化するのだが、世の中が切り捨て時代にある以上、まったく驚かない事件は、まだまだ続いてゆくのである。
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