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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑮

2007-01-03 12:59:50 | 歴史から学ぶ
 離島を除くともっとも全国で小さな村として知られていた富山村は、北設楽郡にあった。天竜川右岸の長野県境にあったこの村は、対岸に静岡県水窪町が望め、愛知県の中心からもまさに遠い位置にあった。愛知県そのものがどちらかというと、岐阜県や三重県に寄った位置に中心があるから、東の端っぽのこの村は縁遠い場所というイメージがあったに違いない。村の面積も小さく、どこを見ても山ばかりである。北には県境を越えて長野県下伊那郡天龍村があり、西から南にかけては同じ北設楽郡の豊根村があった。天竜川の佐久間ダム建設とともに、川底に沈んだ集落があって、小さな村はそんな環境から生まれた。手元にある昭和56年の村政要覧によれば、人口227人、世帯数73ということで、いかに小さいかがわかる。わたしが現在住んでいるが戸数80戸ほどだから、それよりも少ないのである。それで一つの自治体を作っていたというのだから、考えようによってはすごい話である。人口の推移というものもあって、それによると、1448年が約150人といい、明治以降に増えて大正9年のピーク時は1496人だった。要覧に「村の最長老」のコメントがあって、一番の思い出は佐久間ダムによる水没だったという。昭和22年に1073人あった人口は、ダムによる水没後の昭和35年には654人に激減している。以降減少を続けることとなるわけだが、交通の便からいっても、なかなか打開策のない地域であることはよその者にも予想できるわけだ。愛知県の中では東の端ではあるが、名古屋市まで直線で100キロ弱ということで、さすがに長野県の距離感とはくらべものにならないが、現実的にはこのごろの合併によって対岸は浜松市となっているわけだから、交易圏的にはどこが理想の地域なのか、住んでいる人たちがもっともわかっていることなのだろう。ちなみに高校は、自宅通学生の大半が静岡県立佐久間高校へ、稀に愛知県立の高校や長野県立阿南高校への進学する者がいるという。

 冒頭の「まれびとの里 富山」というパンフレットは、昭和58年に作成されたものである。

 前述のパンフレットでも触れられているが、この村では「大谷のみ神楽」という祭りが正月に行なわれている。愛知から長野の県境域には同様に古くから伝わる民俗芸能が伝承されていて、独特な地域を作っている。そんな意図があるのかわからないが、広域圏で作成されたパンフレットがけっこう多い。下記のパンフレット「信州 三河国境の村」は、富山村、阿南町、天龍村、売木村、豊根村という2県にまたがる5町村共同で作成したものである。長野県内を見渡した際に、県境を越えた地域と広域的に観光パンフレットを作成している地域は、この伊那谷の南部をのぞくとほかの地域では例を見た覚えがない。それだけこの地域が越県した地域と密接なつながりを持っているということがいえるだろう。このパンフレットは年代は不詳だが、おそらく冒頭の村のパンフレットと同じころのものと思う。現在観光拠点のひとつとなっている阿南町や天龍村、そして売木村の温泉施設の名は登場しない。まだまだ山の中の過疎地というイメージが強く、多くの観光客を迎えるという地域ではなかった時代のものである。いや、今もその状況にはなっていないのだろうが、前述の温泉施設の開業とともに、中京方面からの観光客は明らかに増えている。B2版を三つ折にしたパンフレットの1/4は、この地域の民俗芸能を紹介している。「民俗芸能のルーツを訪ねて」というページには、この祭りの写真が展開されている。

 さて、この富山村は、平成16年11月27日に隣村の豊根村と合併して新豊根村となった。合併しても小さな村であることに変わりはないが、いずれさらなる広域圏への合併も余儀なくされるのかもしれない。いっぽうの長野県側は、今も変わらず自立の方向である。なかなか合併しようにも立地上から難しい、という面もあるのだろう。



 要覧の裏表紙に当時の小学6年生が「私たちの村」という文を掲載している。「(前略)この村のいいところは、学校の生徒が少ないので、先生がしっかりわかるように教えてくれることです。よそでは、ちょっとでもできないと、おいていかれるけれど富山は、そんなことがないからです。その反対に困るところは、どこへ行くにも電車がおもで、時間がかかるので、いやだなあと思います。豊橋に行くだけで、3時間近くかかります。電車に乗るだけで、つかれてしまうからです。わたしは夢だと思うけれど、将来、お店がたくさんできて、交通の便もよくなり、もっと人口がふえるといいと思います。」というもので、この文を書いた女の子も、今ならもう40歳くらいになるわけだ。その後村に残られているのか、どこかへお嫁に行かれたのか、とそんなことを思いながらこの要覧の奥深さを感じているわけだ。パンフレットとともに要覧をセットでのぞくと、当時のことも含めて、平成の合併がどういう結論だったのかが見えてきたりするわけだ。

 消えた村をもう一度⑭

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