Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

三九郎からの伝言

2007-01-29 08:15:06 | 民俗学
 『信濃』(信濃史学会)1号に、窪田雅之氏が三九郎の現状を報告している。三九郎は、一般に言うドンド焼きのことで、松本地方を中心にそう呼ばれている。独特な呼称からも、この地域独自の印象が強いものであるが、行事そのものはそれほど他と変わるものではない。ただ、古くは傍らの道祖神に小屋がけをして、通行人に対して通せんぼをしたともいう。小屋がけは他の地域では現在も行なわれているところがあるが、通せんぼについてはこの地域らしいものといえる。子どもたちにとっては楽しい行事だったこともあり、三九郎をノスタルジックに捉えている大人は多い。そんなこともあるのだろう、子どもたちに継続していって欲しい行事として捉えている向きがある。

 さて、わたしも成人の日の変更についてはいろいろ思うところがあるが、三九郎をめぐる現状報告に、行事日の変化があげられている。平成11年に調査された399箇所のデータでは、1/8が0箇所、1/14が217箇所1/15が169箇所とあり、ほとんどが小正月に行なわれていた。ところが、平成11年の祝日改正にともない日程は動き出す。今年の場合は、1/7が110箇所、1/8が218箇所、かつてもっとも多かった1/14が88箇所となっている。今年の場合は1/14が日曜日であったということもあるが、そうでなければもっと少ないことも考えられる。あまりの変化はノスタルジックな大人たち、とりわけ年寄りたちには違和感があるだろう。とはいえ、行事が大人たちがノスタルジックに思うほど子どもたちが楽しく捉えているかは別である。自主性のなくなった形骸化した姿はどこにでもある。大人たちがノスタルジックに思えば思うほどに、生きた子どもたちの行事は失われてゆくのが今風だ。

 「美しい日本」などといって愛国心を持たそうとしている国策にしては、休日のあり方は正反対の方向ともいえるが、経済至上主義が根底にあるのだから、それも正しい国策なのかもしれない。市議会で「三九郎の日」を設定して休日にしたら、なんていう議論もあったようだが、市側はそんな考えはまったくない。具体的な内容は知らないが、市側の答弁を見る限り、この国は末端の自治体も「国策には無口」という姿をあからさまにしている。取り上げる気持ちなどさらさらなさそうだ。しかし、地域ごとに事情もあるのだから、地域ごとに休日を設定する、なんていう考えは良いことではないかとおもうのだが、まさに戦時中ニッポンを再現させるようなやりとりだ。

 なぜもこう画一的なのか、そう思うが、かつて農休みといって田植え後に定められた休みは、地域や集落ごと長が触れを出して休日を決めていた。そんな具合にもっと自由であってよいではないか、と思うのはわたしだけだろうか。「いやー困った。来年(平成19年)の三九郎を一月六日にやりたいっていう町会が出てきちまって。まだ七日前だがさ、どうすりゃいいかねぇ」というある育成会長のの言葉を紹介しているが、伝統をどうしても踏襲するのが良いと一概には言えないが、はたしてこの国の伝統を重んじる美しき国は、どこへ行った、というところだろう。なーんだ、意味わかってないんだ、などと思ってしまう。
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