この年末も年賀状の用意もできず、今年は年賀状を辞めようか、などと思っていたが、元旦に配達された年賀状を見て、年賀状モードに入ってしまった。どんなに簡単な年賀状でも何枚も書くとなると容易ではない。もらった年賀状を見れば、このごろはあて先もほとんどがワープロで印刷されている。裏も印刷ならほとんどそのまま出せる。そんなこともかつてはやったが、それすら面倒くさくなっている。あらかじめ出す用意をしていれば、あて先順に印刷してゆけばよいのだが、とりあえず元旦に届いた年賀状に返信しなくては・・・、と思うからそういうわけにはゆかない。とすれば、なかなか宛名まで印刷するに至らない。
ということで、あて先は手書きである。ところが、どういうことか、宛名を書いていても字を間違えるのだ。ササッとすばやく書いてしまおうと思って書くと、線を一本忘れたり、字そのものを間違ったりする。明らかにボケたのか、と思うほどに今までと違う。考えてみれば、このごろは字を書かない。だから実際の字の形を忘れがちである。加えて手先を使わないのだから文字を書く感覚が遠のいてしまっている。仕事上でメモ書きなどをするわたしでさえこんな状態なのだ。ワープロをすぐに使いたくなる人の原点に、「字を書くことが苦手」というケースが多い。文字がきれいな人はよいが、へたくそな人にとってはワープロは好都合である。へたくそなところが見られないからだ。そういう意味ではバランスとかイメージといった点が表現方法になるのだろうが、文字そのものはなんら人とは変わりなくなる。味気ないとはいうが、面倒くさい人にとってはそんなことはどうでもよい。ただ、わたしのように字が書けなくなっている人も少なくないだろう。
子どもたちは字を書いていて、昔となんら変わりがない。ところが、中学とか高校と進学していけばゆくほどに文字を書かない。昔なら一生文字を書いたわけだが、そんな常識は大きく変化している。字を忘れる、ということだけではなく、手先を使わなくなるということへの不安感がある。文字を書くことにくらべれば、コンピューターの画面を見つめる方が、老眼には優しい。ところが現実的には視力は低下してゆく。とすれば、しだいに手先も見えなくなるし、そういうことがしたくなくなる。むしろ字を書けなくなることよりも、そういうことの方が心配なことである。
そんなことを思いながら、なんとか元旦の年賀状の返信を今準備している。息子が学校で作ったてん刻の「謹賀新年」を押印して、少し手づくり風な空間を持たせながら、なんとなくではあるが義務を果たしている。あらためて年賀状を用意するのも時間のかかることだと認識しながら、まだこれから届けられるであろう年賀状のことを思うと、頭が痛い。
ということで、あて先は手書きである。ところが、どういうことか、宛名を書いていても字を間違えるのだ。ササッとすばやく書いてしまおうと思って書くと、線を一本忘れたり、字そのものを間違ったりする。明らかにボケたのか、と思うほどに今までと違う。考えてみれば、このごろは字を書かない。だから実際の字の形を忘れがちである。加えて手先を使わないのだから文字を書く感覚が遠のいてしまっている。仕事上でメモ書きなどをするわたしでさえこんな状態なのだ。ワープロをすぐに使いたくなる人の原点に、「字を書くことが苦手」というケースが多い。文字がきれいな人はよいが、へたくそな人にとってはワープロは好都合である。へたくそなところが見られないからだ。そういう意味ではバランスとかイメージといった点が表現方法になるのだろうが、文字そのものはなんら人とは変わりなくなる。味気ないとはいうが、面倒くさい人にとってはそんなことはどうでもよい。ただ、わたしのように字が書けなくなっている人も少なくないだろう。
子どもたちは字を書いていて、昔となんら変わりがない。ところが、中学とか高校と進学していけばゆくほどに文字を書かない。昔なら一生文字を書いたわけだが、そんな常識は大きく変化している。字を忘れる、ということだけではなく、手先を使わなくなるということへの不安感がある。文字を書くことにくらべれば、コンピューターの画面を見つめる方が、老眼には優しい。ところが現実的には視力は低下してゆく。とすれば、しだいに手先も見えなくなるし、そういうことがしたくなくなる。むしろ字を書けなくなることよりも、そういうことの方が心配なことである。
そんなことを思いながら、なんとか元旦の年賀状の返信を今準備している。息子が学校で作ったてん刻の「謹賀新年」を押印して、少し手づくり風な空間を持たせながら、なんとなくではあるが義務を果たしている。あらためて年賀状を用意するのも時間のかかることだと認識しながら、まだこれから届けられるであろう年賀状のことを思うと、頭が痛い。
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