Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農村の不幸に見る自らの不幸

2007-01-27 13:13:57 | 農村環境
 都会から田舎暮らしへ、そんなフレーズはごく聞きなれたものだ。しかし、田舎としてくくられている地方は一様ではない。さまざまである。そのさまざまな田舎暮らしが、「田舎」という一言でまとめられてしまっては、そこへ住もうとしている人たちに意識の甘さが浮き上がってしまう。①老人ばかりになってしまった極限の山間地域の集落。②後継者も含めて何世代かが同居する家がある程度存在している山間の集落。③家は残るがほとんどが空家状態の山間の集落。④老人世帯と三世代同居世帯が混在している地方都市周辺の集落。⑤一人暮らしから若者世帯、集合住宅から戸立て住宅とさまざまな家庭が混在している地方都市周辺の新興住宅地。なとなどあげていったらそのパターンは数多くある。積極的に田舎暮らしをしませんか、と展開している地域をみても、その実際の斡旋区域がどういう地域なのかまではわたしも知らないが、あくまで居住者を増やすことを目的としていれば、その地域のあらゆるパターンが紹介されるだろう。ということは、○○市という地域で、町中もあればまったくの山間地もある。どこを選択するかは希望者のニーズによる。どこもかしこも「田舎」である長野県のような場所は、まさにその多様さは計り知れないほどある。

 先ごろどこかの広報誌に、コンパクトな街づくりをしている外国の事例を紹介し、目指す街づくりはそういうものではないか、というような記事があった。以前に「今住んでいる人たちのために」のなかで紹介した伊達市の例は、まさにそうしたものである。このごろの人口の動きや、東京への回帰現象をみるにつけ、東京がどういう位置付けなのか、そして地方の都市はどうなのか、というところをトータルに説明できる理論は、わたしの中には生まれないし、聞こえてこない。そうしたなか、地方は今まで暮らしつづけた人々にどう今を継続する術を展開してゆくか、ということになるのだろう。たとえば長野市や松本市といった地方の中心とその周辺の山間地域は、同じ地域にあってどう位置付けられてゆくか、ということになる。同じ市域といっても、今や長野市には旧大岡村や鬼無里村といった地域があり、松本市には旧奈川村や安曇村といった地域がある。地方都市の自治区域は広がり、そんな山の中の暮らし、あるいは自治をどれだけ吸収した側が理解しているかは疑問である。地方都市そのものが、すでに田舎を知らなくなっているのだから仕方のないことであるが、単に「山の中」とか自らの立場からみた「田舎」と認識していて、同じ市域でありながらそうした地域を明らかに、「下」に見る傾向は強い。そんな地方の課題が山積みの中に、「田舎」とくくられた存在を求めて都会から人が住み着くとしても、課題はさらに複雑化する。

 いままでにも、前述した①とか③といった地域に芸術家などを中心に居住地を求めてきて暮らしている人は多い。どちらかというと、地域に馴染まなくてもよい存在であったかもしれない。もちろん馴染んでいる例も少なくないだろう。しかし、今行なわれている田舎暮らしの斡旋は、自治体が行なっているものが目立つ。となれば、地域に入ってもらうことが第1だと思う。そう考えると、移住する前にその地域のことを説明しておくことが必要になる。そのいっぽうで改めてそんな実情を説明することで、移住を断念する人たちが出てくるかもしれない。人を増やそうという意図だけを重視して、安易に受け入れてはいけないこを、十分承知の上での斡旋とは思うが、不安は多い。また、①や③ではなく、④とか⑤といった地域に住み着く人もさらに多くなるかもしれない。従来にも安曇野を求めて移住した人たちは多かったが、そうした立地を求める人たちも少なくないだろう。従来の住人より、新たなる住人が多くなっている地域も少なからずある。そんな地域と山間とはどう位置付けられゆくのかと考えたとき、山間の集落の継続のあり方が見えてくるようにも思う。同じ区域に両者が存在する自治体こそ、その方法を導いてほしいものだが、どうもN市を見ている限り、そんな協同は感じられない。世の中が「格差」という言葉を明確に説明できずに「格差が広がった」と言っている以上は、両者の関係は確立できないように思うわけだ。格差ではなく、価値観の違い、とか役割の違い、などといった考え方に変えなくては、地方にあってのマチと山間の関係は説明できないだろう。

 今日もまた、信濃毎日新聞の「農村の危機と文学」の記事から始まって思ったことをいろいろ展開していたら、こんなムチャクチャな綴りになってしまった。いったい何が言いたいんだ、と自ら思ってしまうほど支離滅裂である。一つのキーワードでは、狭い考え方になってしまう、と常ひごろ思っているから、このごろはトータルに何を見ればよいのか、というところにまとめたいと思っている。しかしながら、頭の中がついていけないわけで、自分の思考能力の低下を感じている。わたしは、自らの生活習慣の年齢による変化に気がついている。それは何らかの方法、たとえば運動をする、とか違う行動を起す、ということで変化をもたらすことができるだろう、くらいは解っているが、そのゆとりがない。そんな人間が、この世には増えているに違いない。多くを望まない、そんないい加減さが、もっと広がって欲しいのだが、それは「甘い」で片付けられてしまうのだろう。この先の世の中をどう捉えてゆくか、人にはもっと高いものが望まれてゆくだろう。そこから脱落したことで「格差」だと思っていては、自殺者は増えつづけるだろう。もう「格差」という言葉は止めにしよう。
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