Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年代格差をどうみる

2007-01-05 14:21:19 | ひとから学ぶ
 〝ウィークリーいいだ〟(飯田市高羽町週刊いいだ編集室)という無料配布される新聞の元旦号の投稿欄に、こんな投稿があった。「団塊の世代の定年が始まる2007年、海外旅行や高級車が売れ始めているそうです。パート社員の私にとっては退職金などあるはずもなく、定年を向えたところでぜいたくな暮らしになるどころか先々不安でなりません。思えば青春時代、私よりちょっと前に生まれた団塊の世代の人たちの、ヒッピー族やフォークソングなどにずいぶん影響され、安易な生活を送ってしまった結果なのでしょうが・・・。また再びこの人たちが世の中に影響を与えているんですね。なにかにつけてすごい世代だと思います。」

 というようなものである。的を得ている言葉を聞いて、そう考えるのなら、この一時の時代、世の中は少し動くぞ、と思うとともに、それによる悪影響をすぐに考えてしまうのが、わたしの悪い癖である。

 ただでさえ、年寄りは暇で銭を持っている。もちろん全員ではない。いわゆる会社勤めをしてしっかりと年金をもらったり、あるいは退職後も仕事をして有意義に暮らしている人たちを対象に言っている。田舎でほそぼそ農業をやっていた人にはとても同じ環境はないから、「格差時代」とはいうがそれこそ格差が歴然と浮き出てくるように思う。昔父が、よくこんなことを言った。「老後のことを考えて厚生年金に入っておけばよかったのに、そういう機会に会社が導いてくれなかった」と。いわゆる農業の片手間のようにはじめた手仕事が、現金収入の重要な位置を締めるようになるとともに、農業が副業的な存在となっていった過渡期に、父は働きに出始めた。だから、そのまま厚生年金に加わらなかったため、退職後も国民年金に頼るしかなかった。今の大方の人たちのような年金による恩恵は受けられなかったわけである。おそらく会社でも厚生年金に入ったらどうか、ということを投げかけたことはあるのかもしれないが、会社も、また労働者も、具体的な年金の姿がまだ見え難かった時代だったのかもしれない。とくに農村で農業から別の仕事に現金を頼り始たころだから、父の世代にはそんな損な役目にあった人たちはけっこういたに違いない。だから、年金をたくさんもらっている人たちに対して、愚痴をこぼすことはよくあった。

 暇で銭もあるとなれば、何でもできる。まさに「余生を楽しむ」という世界である。こんなことを言うと、その世代、あるいは年配の方たちには批判を受けるだろうが、若い人たちが年金の補償もなく、さらにはまともな給与、そして仕事も持ち合わせないような環境を作ってきたのは、まさにそうした人たちのせいだと、わたしは言いたい。ことに団塊の世代といわれる人たちが退職することにより、年金世代がどういう暮らし振りをするかで、この国はもっと若者にとってつらい時代がくるような気がしてならないわけだ。だからこそ、そんな世代を対象に「田舎に住みませんか」と受け入れを積極にやっている自治体のやり方は賛成できないのだ。田舎は壊滅的な打撃を受けること確実である。ますます田舎に若い人は目を向けることはないだろう。
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