Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

テレビの世界は〝ウソ〟

2007-01-20 15:34:16 | つぶやき
 テレビドラマなんかの再放送を見て、とくにいつ放送されたものなのか、などと興味を持つことはないが、時代を感じさせることがたまにある。もちろんその時代背景を意図的に見せるようなものもあるから、なんてもいえないが、そんなことを考えていて、時代劇とはいつの時代のことをやると時代劇なのか、なんてくだらないことを考えたりする。

 サスペンスモノなんかにも時代背景を戦前戦後を設定しているものもあるが、現代版サスペンスなんかはあきらかに、意図的な時代背景などはないものがほとんどだ。だから、時代を追い詰める必要もないが、見ていてちょっと前の時代だ、なんていうことを気がつくこともあるが、大方の場合、登場する小物から察知するわけだ。今では少なくなった公衆電話、ビデオカメラ、もちろん自動車の車種なんかもそんな時代感覚を呼び起こしてくれる。昭和40年代の「太陽に吠えろ」時代には、パトカーに追いかけられて車が大破する際は、逃げている車と大破する車が違っている、なんていうことが普通だった。今の若い人たちにはそんな世界はナンセンスに映るだろうが、その現実を視聴者はどこか理解して見ていた。ようは真っ赤なウソが映し出されてもそれは同じモノとして見る側はつなげてみていたに違いないわけだ。

 ところが、観る側に真実に近いイメージを与えるには、すり替えなんていうテクニックではなく、限りなく真実に近い世界を見せてあげたい、なんていう作る側の意図がいつの時代からか当たり前になってきたようで、気がついたときには大破する車は、本物、それも見るからに新しい車がそのまま利用されているように印象付ける映像が流れていた。真実味というものは、リアリティーということになるのだろうが、いっぽうでテレビドラマの世界をどうウソと判断するかが難しくなったということになる。ウソっぽくても楽しく見ていた「太陽に吠えろ」時代。人は死んでも生きかえるなんていう意識を、当時子どもだったわたしはとても抱くことはなかった。リアリティーになればなるほどに、この世の子どもたちは生きかえるという意識を持ち始めた。何がそうさせるのか、わたしにはわからないが、架空の世界を架空と思わず、真実だと思える人たちが増えたのだろうか。言い換えれば、現代人はみな芸術家の性格を持ち合わせているのだろうか・・・。

 ウソっぽいものをウソだとわかっても何も言わず、夢中で見入っていた時代が懐かしいばかりだが、ウソを「ウソ」と言わなかった見る側に大きなこころがあったように思うのだが違うだろうか。
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