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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“田んぼの生き物たちのいま”から⑤

2012-07-09 23:28:58 | 自然から学ぶ

“田んぼの生き物たちのいま”から④より

 四方圭一郎氏は「農業の問題も農村の自然環境問題も、舞台が同じ農村である以上、対立軸(「人か、自然か」という対立)で議論し合ってもなにひとつ良くはならない。対立するよりは接点を見出した方が、よりよい解決の糸口が見えてくることは、誰でも考えつくことであろう」(「田んぼの生き物たちのいま-イネしか育たない田んぼにしないために」『伊那』1010号/伊那史学会)という。しかしこの誰でも考えつくことが、現実的には生かされていない、というか気がついていないのも事実なのだ。「本来農村の中には、生活に根ざした生物多様性の認識があったはず」、その認識とは「身近な自然を利用した食や遊び、または地域に伝わる知恵や言い伝えなど」だという。昨日も触れた「田の草取り」。今では田植後に田んぼに入る機会は少なくなったと言えるが、例えば紹介した田の草取りの歌にしても作業歌として発生したもので、農業に関わるものはかつて数多く伝承されていた。それらはもちろん重労働を補う意味もあっただろう。先ごろ妻は一人で田んぼに入っていてゲンゴロウに出会ったという。妻の大事にしている空間には明らかに生物多様性が垣間見れるが、それも出会う機会が無ければ無意識のうちに済んでしまうこと。実際の空間での作業に夜って見えてくる生物多様性の実態を、いかに体感でき、そして意識することができるかが大事な部分なのだろう。「地域の人々の中にある生き物の認識こそが、「内なる生物多様性」」だと四方氏は言うのだ。認識しなければ多様であるという実感も、また経験値も蓄積されない。そこから人である故の文化も発生しないというわけだ。機械的な動作、そして意識ならば、人という生き物の利点は失われる。人であるが故の生き方が、強いては自らの認識を高め、多様な人社会や人生なるものも描くことになるのだ。

 四方氏は稿の最後に「時間軸を認識しにくい「種」や「生態系」などは、目に見えにくいこと、関係が不明なこと、動的で常に変化していくことなどで、価値の共有がはなはだ困難な場合が多い。しかし、この伊那谷の生態系もそこに暮らす生き物たちも、この土地の風土の中で長い時間をかけて成立して今ここにあるのである。歴史的価値という点で国宝や文化財に決して引けをとらない十分な価値を有しているといっていい」とまとめている。そもそもモノとして捉えた価値は承知のところだが、無形なものに対する価値についていまだ認識は低い。後に無形の文化財が指定されるようになったが、自治体の意識の中にはこの無形の文化財に対してとても認識が低いところも今だ多い。生物に関しても個体に対しての意識は高いものの、それらは総合的な環境を有しているからこそ存在するわけで、それらは無視できないはずなのに、それを重視する視点は弱い。まさにここに「内なる生物多様性」が求められているといってよい。けして田の草取りをしろと言っているわけではない。意識として野に出る、そしてその日常を知る、それを伝えていかなくてはならないということではないだろうか。

 終わり


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