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続々 祢津東町歌舞伎

2024-05-03 23:08:50 | 民俗学

祢津東町歌舞伎(2024/4/29)

 

 中村規氏は、「地芝居」には歌舞伎も操りも含まれるといい、「地狂言」が歌舞伎にあたるようだ。そして『広辞苑』の説明「農村など各地の民間に伝承され、祭礼などの際に地元の人々によって演じられる芝居。村芝居。地狂言。田舎芝居。農村歌舞伎」の解釈は正しくなく、願わくば「全国各地で祭礼などの際に、地元の人々が演じる芝居。村芝居。田舎芝居。地狂言」とされたいと説く(「地芝居考Ⅱ―『広辞苑』の地芝居解釈をめぐって―」(『まつり』77 まつり同好会 2015年)。歌舞伎も操りも、職業的な旅回りの役者によって行われたものが土着していったもの。繰り返すが操りも芝居のひとつであり、外題も歌舞伎と操りに共通するものが多い。しかし、「地芝居」と言うと、今は歌舞伎を称すことが一般的になっている。そして舞台は、まつに歌舞伎を前提に造られたものが多いようだ。

 「続 祢津東町歌舞伎」で引用した『本郷区誌』(平成9年 本郷区)から舞台造の立背景をうかがってみる。現存する舞台は慶応元年(1865)に完成したもので、間口8間、奥行き4間の寄棟造りの茅葺屋根であったが、保護のために銅板葺きにされており、直径3間の廻り舞台である。明治20年に改築願いが出されており、相応の使用がされていなかったことがわかる。結局修理されたことによって現存することになったが、建築当時は豪壮なものとして知られていたという。同書では「近世飯田など下伊那方面で盛んであった歌舞伎演劇が、本郷へもだんだん浸透してきたせいで、浄瑠璃や演劇が盛んになり、舞台の設備が要求されてきたのであろう」(384頁)と記している。そのうえで「歌舞伎などが青年や有志によって上演されたのであろう」と想像している。ようは記録として歌舞伎上演をしたというものが見られないようだ。同書の青年会を扱った章によると、村芝居の記録が残されている。昭和17年の青年会の芝居「水戸黄門」の写真が掲載されており、その回想録と思われる齋藤千代三さんの手記には「当日裏方は回り舞台につき、間合いがないように工夫してくれました」とある。舞台を利用した数少ない記録なのだろう。舞台を築造した後、明治時代に入り、興行に対する規制が厳しく、容易に芝居を演じることができなくなり、せっかくの舞台も相応の利用が叶わなかったと考えられる。裏を返せば背景には地域性や、古くから継続されてきたことによる地元民の熱の入れようなどがかかわったと思われる。加えて当初は旅芸人の興行が盛んで、それらは迷惑を掛けないように、人家から離れた場所で行われたよう。ようはそれら旅芸人の興行で舞台を利用することはなかったようだ。結果的に今とは違って青年会が盛んな活動をしたにもかかわらず、継続した催しに固定せず、さまざまな催しが企画されることになったようである。結果的に前編でも触れた通り、舞台はさまざまに利用されることになったわけである。県内にあるどこの舞台も同じ背景であったかは定かではないが、時代の流れで活用すべき舞台が相応の利用をされずに現在に至った例が多いと考えられる。

 さて、文化庁では平成27年度に『「全国の地芝居(地歌舞伎)」調査報告書』を発行している。それによると祢津東町歌舞伎について太夫も三味線も依頼しているとある。振付指導は上田市在住の益子輝之氏(現上田民俗研究会代表)にお願いしているという話は当地でも聞いた。太夫を依頼している鶴沢蟻鏡氏は群馬県の横室歌舞伎保存会の太夫でもあり、各地の歌舞伎に出向いている方のよう。同報告書によると長野県内では以下9か所の歌舞伎が活動中とされている。

中尾歌舞伎保存会(伊那市)
東町歌舞伎保存会(東御市)
平谷歌舞伎(下伊那郡平谷村)
下條歌舞伎保存会(下伊那郡下條村)
大鹿歌舞伎保存会(下伊那郡大鹿村)
上松歌舞伎・小川里若連中(木曽郡上松町
上松歌舞伎・大宮君達 (木曽郡上松町)
上松歌舞伎・上君達(木曽都上松町)
田立歌舞伎保存会(木曽郡南木曽町)

 

終わり

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