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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「さわし柿」-『伊那路』を読み返して57

2024-05-17 23:15:54 | 地域から学ぶ

「廃れきった十王堂の話」-『伊那路』を読み返して56より


 『伊那路』昭和40年11月号の「さわし柿」は、駒ヶ根市中沢の竹村直人氏が寄稿したもの。「中沢では昔から畑や畦畔に何処でも二本や三本の「せんぼ柿」があった」という。このせんぼ柿をさわして畑地の広い箕輪の方へ売りに行ったという。実際には「売る」というよりは物々交換をしたようで、馬の餌にするため稗などと交換したらしい。ようはそれらは畑の多い地方に多かったため、そうした地域へ売りに出向いたよう。「何時頃から行きはじめたものか不明であるが、私の祖父が天保の末期生れで若い頃は二匹馬で盛んに行った」という。そして竹村氏が上伊那農学校に入学した際に紹介されると、北の方から通学していた生徒に「“せんぼ”いいぞ」とやじられたという。したがって「中沢の「せんぼ」と炭焼きは有名で知られていた」という。山奥の人に対して「おっさんどこだい、炭焼きかい、どうりでお顔が真っ黒だ」と言われたものと共通している。また「さわし柿の匂いが一寸風呂の匂いに似ているので御風呂に入ってからその湯を使って柿をさわしたのだろうなどいろいろな悪口をいわれた」とも。

 こうしたさわし柿「秋になり柿が熟するともぎ取って柿をさわす専門の大桶に入れる。その周囲と底には藁を並べ熱の発散を防ぐのである。一石ばかり入る大桶で、それは今現存しており果樹の消毒用に使っている。一方大釜で湯を沸かして熱湯を柿の上まで注ぎ粟がらをおいてその上を筵やネコで覆って縄で結びなお周囲を筵やネコで包む。大体一昼夜で渋味がとれて柿が甘くなる。柿がさわれて甘くなると桶から取り出し藁の上に拡げ水気を去り叭に入れ、馬につけて若い衆や男衆の柿売り出発の準備完了となる」。夕食後提灯や蝋燭を持って東春近の田原よけを通って六道原まで一緒に行ったという。そこで分散し、西箕輪の大萱や与地、あるいは南箕輪から中箕輪に行ったといい、あるいは天竜川左岸の牧や福島、さらには東箕輪の長岡の方まで行った。そのため昔の人は北部の地理に詳しかったという。

 「子供が大勢遊んでいると持っていた笊で柿をやると子供はすぐ家に帰って柿売りが来たからと云ってねだ」ったという。そこで商談が始まり、「柿にもよるが笊に柿いっぱいとその笊にいっぱいの稗との交換で稗を米でいうならば今の米選機下の二流品を柿の交換用として準備してあった」という。こうして馬の餌を確保して、農繁期の馬のはげしい労働に備えたわけである。竹村氏がこう記した昭和40年には、既にせんぼ柿はわずかに残っているのみだったよう。半世紀、いや1世紀も前の「せんぽ柿」売りの話である。

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