先月「寒念仏について」において、安曇野市明科塩川原を訪れたことについて触れた。その日、昭和19年生まれの男性に話を聞いたわけであるが、「お堂の中にあった本尊は何だったのですか」と聞いた際に男性は「カゼノカミサマ」だったと言う。お堂の本尊がカゼノカミサマはないだろうと思ったわけであるが、かつて行われたカゼノカミサマの際に、お堂から送ったという。ようはここがムラの人たちの集合場所であったとうかがえる。だからこそ、寒念仏の塔婆がここに納められているわけで、寒念仏の始まりも、ここなのだろう(あくまでも想像であるが)。
春彼岸の神送り行事である百万遍行事が、犀川右岸地域の明科から四賀にかけて行われている。過去にはそれら地域の多くで実施されていたのだろうが、現在も行われているのは、明科では潮の柏尾と、会田川沿いの清水の2か所のみ。あとは旧四賀村などと、少し離れて長野市大岡あたりである。清水の行事は「百万遍」と称すのだと今年訪れるまで思っていたが、聞けば地元では「カゼノカミサマ」と言っているという。ようは「カゼノカミ」なのである。そして塩川原で同じ「カゼノカミ」を耳にして、犀川左岸でも行われていた痕跡をうかがうことができたわけである。やはりこの地域では広域で行われていた行事のよう。そして塩川原でも春彼岸に行われていたというから、彼岸行事に特徴ある地域と言えそうである。
さてそのカゼノカミであるが、昭和19年生まれの男性によれば子どもの頃行事に参加したことがあるという。藁人形を作り、旧木戸橋のたもとで投げ捨てたという(現在の木戸橋より少し上流にあった)。集落境の崖に捨てるというあたりは、清水のカゼノカミサマと同じである。その藁人形の姿を思い出してもらったが、正確には蘇らなかった。ただ刀を差していたともいうから、やはり侍姿だったと想像する。男性の記憶は子どものころ、それも低学年のころで途切れる。その理由は正月の火祭りである三九郎が、近在の火事による事故で学校から辞めるよう指示があったことによるようだ。それをきっかけとして子どもたちの行事が規制されて、途絶えてしまったようにもうかがえる。そのため、自ら大将(年長者)として行事に参加した記憶がないのである。
この彼岸の行事について『明科町誌』には次のように記されている。
風の神を追い払うといって、藁で人形を作り、紙の着物を着せ、両そでへ風の神と書き、手におひねりを持たせて堂の正面へ並べ、お堂の前へ進まって(「集」か?)念仏百万辺の行事を行ったり、部落中が集まり、疫病神の追払いの式をし、神酒をいただくところもある。人形は部落の入口に並べて立てる。
この記述の通り、人形を並べて立てるところは、現在実施しているところにはなく、近在でもない。離れた大岡あたりでは集落境に「立てる」ところが多く、大岡の例によく似ている。今回「カゼノカミ」の「カゼ」とは何を意味しているか聞いてみたが、「風」ととらえていたものの、その風とは何かと問うてもはっきりしなかった。また数珠を回した記憶はないという。