Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

趣味では維持できない空間

2009-05-29 12:37:37 | 農村環境
 先ごろ「「遊びの百姓」に農業は救えない」にコメントをいただいた。「年金百姓や趣味の農業でいいのではないでしょうか。それでも生産量は少しは増えるわけですから」と。おっしゃる通りで、そうした人たちにも細々とした農業の一翼を担ってもらっていることは事実。ただ言えることはそういう農業はほんの一握りであるということである。

 先日も妻の実家で草刈りをした。基本的に土日しか行えないわけであるが、こうした農業が底辺にあって今の農業を支えている。ある意味でそうした農業を本人たちが「趣味なんです」と口にしたとしても本音は全く異なり、致し方なくやっている部分も多いことだろう。わたしも人には「余暇」とか「楽しみで」などと口にすることはあるが、本音にはそのようなものはない。誰かがやらなければ途絶えてしまうという気持ちがあって、土日は農作業になる。背の丈以上の段差のある土手の草を刈り、梅畑から柿木の下まで刈っていく。非生産的という雰囲気もあるが、草を刈らなければ病気が出ることもあるし、どこかで生産に繋がるという気持ちがないとなかなか草は刈れない。

 わたしの家の周りを見渡すと、ただただ荒れている畑の草だけを年に何度も刈っている光景を見る。なぜ刈るかといえばそのままにしていては管理をしていないと見られるし、荒れ放題にしてしまうとますます手がつかないほどになってしまう。これが水田ならそれほど手がかからない。もちろん機械を購入して、あるいは主たる作業を委託してやったとして、その収入は差し引きすればほとんどない。ようは畑は水田に比較すると面積当たりの収入は作物で大きく異なり、また手間も異なる。ところが水田に水稲を栽培するのはそれほど大きな差が収入にも手間にも出ないということになり、たとえば水田を持っている人たちがすべて畑作物に転換すれば手間もかかるが収入も多くなる可能性は大きい。にもかかわらず草刈りだけして何も生産しない畑が増えるかというと、手間が無いということである。耕作できない土地をそのままでは修まらないといって管理する。しかし何も生産されない。そんな環境であれば、買ってさえしてくれれば売りたいのはやまやまなのである。もちろん住宅や町近郊であればそうした実入りを打算的に選択しようとする農家があるだろうが、基本的に山間地域やなんでもない農村地帯同様にそうした行為が選択できないとしたら、皆がみな同じことをしたに違いないわけである。そういうところも減反と関わってきている。もし減反政策がなかったら、もう少し耕地の減少は抑えられていたのではないだろうか。なにより減反をしたところで作る作物がなければ、荒廃させるしかなかったといってもよい。農家の子どもたちはすでにサラリーマンになっている以上、農業で生計を立てるという気持ちは無くなっていたのだから。だからこそ手間のかからない水稲を自由に作付けさせていた方が耕作地という空間的な農業は維持されていたに違いないとわたしは思うのである。

 荒れ果ててもなんとか維持しようとしている多くの農家が、実は農村の多くの空間を保有している。こうした人たちが農業を見放したからといって責められるものでもない。しかし、いずにしても一握りの人たちのささやかな暮らしを捉えて「新たな民俗が生まれている」というような捉え方をするのは適正ではないとわたしは自ら農業に携わり、自ら農村の姿を見てきて思うのである。

続く
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