Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

わたしたちの選択②

2009-05-12 12:27:46 | ひとから学ぶ
「わたしたちの選択①」より

 「NECのある街、出水です。NECの発展は出水の発展となります。出水はNECとともに未来へ向かいます」という挨拶をしていたという出水市の市長。企業の税収はもちろんのこと、企業があることによる雇用維持はどこでも求められるものである。すべてが好循環を見せる源のひとつが優良企業の招致ということになる。それをどこの地域でも目指したものだが、出水市のような現象はこれまでも何度も繰り返されてきたこと。規模の問題であって、山間の小さな村にとっては銀行の支店がなくなったり、農協の支所がなくなっただけでも痛手となった。そして最近では役場がなくなっていわゆるその地域の大企業を失ったような風景を描いているはずである。そこには高齢者しかいなくなる。中間層の崩壊など小さな空間では今に始まったことではない。

 地方では相変わらず企業誘致に期待をかける。ある地域に企業がやってきてもその周辺には恩恵を受けない地域が存在する。結局はすべてが競争原理ということになるのだろうが、それを日本全体で捉えたところでそれは格差の上に存在しているだけのことであり、満遍なく人々が満足いくものではない。そもそもそういうものなのだ。どれほど借金をしても100年に一度という不況を乗り切ろうとするが、すでにそうした視点が破綻しているはずなのにそれを見直す気配はない。もしこの100年に一度と囃されるときにかつての小泉体制だったらどうだろうか。こんな政策を出しただろうか。景気浮揚と言われて出費されても現状を打開する策になっていないのではないだろうか。今求められているのは確かにその場しのぎの対応なのかもしれない。だからこそ高速道路1000円乗り放題がなんら大問題にもならない。どちらかというと好意的な受け止めが多い。定額給付金にしても同じだ。そもそも雇用増大を目指して税金を出すとしても地方交付税に上乗せして補助残を配布するなどという策は路頭に迷っている人たちのなんら対策にもなっていないような気がする。短期的対策は必要であっても長期的な対策をおろそかにしておいては最悪な将来が待ち伏せるということになる。

 出水市の市長が口にしたような企業によってこの市は成り立っている、将来がある、という考え方はもはや避けるべきではないだろうか。とすればどうするべきか。国民の意識が変わらない以上、この従来の方向にも変化はないのだろうが、競争原理が変わらないのなら、よそに頼らないという視点が必用だろう。まず身のまわりで収支を合わせる方法を原点におき、その地域の付加価値からどう外貨を継続的に求めることができるか上乗せをしていく。もちろん従来の考え方は払拭できないところをどう地域で補っていくかという精神的サポートも必要だろう。そういう意味では少なくなったものの必ずいる農業で生計を立てている人たち、また兼業で農業を営んでいる人たち、老後に農業を営んでいる人たち、といったさまざまな農業と関わっている人たちの連携、情報の共有化が必要だろう。どの業界にも同業種の人たちの情報を共有する場がある。ところがかつては農村社会がその場となっていた農業に関する情報交換の場は、もはやなくなったといってよい。個々の農家が隣の農家とも連携がとれずそれぞれで農業を営む。「いずれは辞めることになる」という状況で農業を営んでいる人のなんと多いことか。単純に農業人口だけでは計れない、将来の危うさがそこにはある。そもそもそこには個々の農家を結ぶものが失われている業界という構図があるのではないだろうか。本来そうした連携を促す人たち、あるいは集団がいても不思議ではないはずなのにいざとなると分裂している。集落営農というものが始まっているのに、その目的はあるいは内容は連携とか情報共有化というものにはなっていないようだ。まず地域空間を形成している大きなもの、地域空間にいる人たちの多くが向いている方向性、そういった地域把握の上にたった地域再生から始まらなければ長期的な策は見えてこないというわけだ。
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