Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「遊びの百姓」に農業は救えない

2009-02-02 12:31:14 | 民俗学
農にみる伝統への回帰」の問題において、安室知氏は「新たな民俗的・社会的リンク」という表現をして、現代の農村を前向きに捉えようとした。より具体的な事例をもとに、「農のあるくらし」(『日本の民俗4 食と農』2009/1 吉川弘文館)において、非農家である市民の農の営みや農村の変化に伴う農の新しい新文化への世界を説いている。従来の仕組みを捉えていても民俗学の視点が終焉してしまう。そこで現代の農や農村にとって、いかなる変化を遂げてもそこに民俗はあり続けるというまなざしで捉えようとしている。そのまなざしの中には、最近とくに注目を浴びるようになった滞在型農業施設や、定年帰農にみる新たな農業者の存在を交えている。しかしその視点は民俗学としての視点であって、農業農村という視点ではないのではないかと考える。

 例えば市民農園では「コミュニケーションのツールとして重要な意味を持っている」と言い、「農の持つ潜在力と言いかえる」ことができるだろうと指摘する。コミュニケーション不足が話題になる現代において、農を介在してそうした不足を補える、さらには農によってさまざまな効果が発生するということになるだろう。これは当然のことでもあり、ニーズが高いことは事実である。しかし、市民農園は大都市周辺ではメジャーなものとなりえるだろうが、遠隔地となったら市民農園というわけにはいかない。そうした環境に代わるものとして、滞在型のクラインガルテンのようなものが登場する。しかし、いずれにしてもそれらは都市部のわずかな人たちのスペースでしかない。現代の農を補填するには小さいものと言わざるを得ない。ただそういうニーズの先に、農の先を見通す一筋があるということは言えるかもしれないが、後述する視点が解消されなくては、楽観論としか言いようがないとわたしは思う。

 安室氏は山口県防府市大道という一農村を事例に、農村の変化の実態から市民農園を利用するような非農家とは異なる農家の姿を追っている。比較的都市に近い農村の実態は、農家とはいってもほとんど専業はなくなり、とくに50代より若い世帯ともなれば専業農家はほとんどないと言う。そして就業者の年齢層を見ると、「農業後継者として六〇歳以上の人が新たに加わっている」といい、いわゆる定年百姓や年金百姓と呼ばれる存在がその地区の後継者として重要な意味を持つようになっているという。大道という集落を捉えた場合のことであって全国のすべての地域に当てはまるものでもないということは十分に承知してのことと思うが、都市に近い農村でのパターン的なものということはある程度言えるのだろう。以前にも触れた「田舎暮らし」がどういう環境をもって田舎と捉えるかはさまざまだろうが、こうした都市周辺でも「田舎」といえばそういうことになるだろう。そのいっぽうまったくの山の中も同じ田舎という空間であるが、そうした地域にあっては定年後の帰農がなしえず、むしろ新たな住民として迎えるケースが多い。それらとこうした定年で帰農した人たちは明らかに違うだろうし、やはり多用な農村の姿があるはずである。

 安室氏はこの中で盛んに「老後の楽しみであり、健康のため」とその定年百姓や年金百姓を捉えている。もちろんこうした農業者がいるかぎり農村の農業は霞の中を細々と続くことだろう。しかし、「農により余生を楽しむ」農業では農業は継続できない。ここが民俗学の視点と農業農村の現実とのギャップではないだろうか。確かに新文化創出ということはあって学問の世界にいる人たちには対象物があって喜ばしいだろうが、ではあなたたちの学問は趣味でしかないではないかとわたしは言いたくなる。ようはこの現実の姿を予測できたであろう学者が、変化を遂げる上でそれらを対象にして高みの見物をしているのと同じではないかと。最後に「農業の担い手の変化が指し示す先は、生産性を重視し工業論理化した産業としての〝農業〟ではなく、老後の楽しみであり、健康作りであり、孫や子どもへ送るための米作り野菜作りであるところの〝農〟に繋がっている」としめくくっているが、農業の生き残る方法として工業的産業化を目指している人たちには相手にされないような言葉である。この二つの相反する農業農村の捉え方が、ますますこの国の農村を潰滅の道に進めるとわたしは考えているのだが…。

 最後に解消されなくてはならない視点を述べよう。遊びの百姓の人たちは、稼がなくても良いと考えているとしていたら、専業で農業をしている人たちはそのあおりで妨害を受けることになる。現実的にいわゆる直販的な商品が農産物の価格を下げているという指摘もある。これらの問題を解消するために個人の農家も品質で勝負することになるのだが、農家とその周辺の住民をまさに企業とその周辺の住民という関係に落とし込めてゆくことになる。

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2 コメント

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農業の将来 (john lemon)
2009-05-23 14:37:22
年金百姓や趣味の農業でいいのではないでしょうか。それでも生産量は少しは増えるわけですから。
一番の問題は、農家が一生懸命有機栽培などやっても消費者がそれを評価してくれない、いや評価できないのかも知れません。季節に関係なくいつでも同じものを望み、形が優れているものを望み、安いものを望み、それが何処で生産されようが無関心です。
農業の最大の生産物は農地であるとまで揶揄される、現在の農業を取り巻く事情。農業生産より都市化や工場誘致やスーパー誘致のほうが優先されるような状況で、本当に将来の生業としての農業を真剣に考えている人はほんの一握りなのではないでしょうか。農水省が、食料自給率が問題だとは言っていますが、成り行き任せのようで何も政策は見えませんね。
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後日コメントさせていただきます (trx_45)
2009-05-26 12:34:30
john lemonさん、コメントありがとうごさいました。ほとんどコメントのない世界ですので、思うがままに書いています。少しご返事をと思いましたが、なかなか時間がありませんので、後日日記としてまたアップさせていただきます。
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