Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農村を助ける社会へ

2009-05-15 19:42:52 | 農村環境
 「わたしたちの選択②」において、農業とりわけ小規模に営む農家には情報を共有できる場や発信してくれる人たちがいないというようなことを述べた。実はまったくないわけではなくわたしの周辺を見ても身近なものとして営農組合があり、営農の係というものが自治会単位の中で役付けされている。しかし、わたしの認識ではその組織が発展的なものという印象は持っていない。係とはいえ兼業を営んできて、それもすでに社会的には高齢の部類に入る人たちや退職後の農業を営んでいる人たちが形ばかりの組織に重点をおくケースは稀ではないだろうか。農業をささやかながら行っている人たちの背景がさまざまで一様でないなかでは、そういう人たちが集まっても基本的なことが語られるだけであり、それぞれの立場に応じたサポートは望めないのである。

 これまでも何度も触れてきたことであるが、農業生産物に対して水を利用して品質の向上を求めれば壮大な水利というものが必用となる。山間のわずかばかりの水田に水を供給するのに、延々と何キロも山腹を用水路で導水するケースはる図らしくない。たとえばたった1ヘクタールもない水田を継続使用としても、河川から水を取り、山腹の水路を維持し、それでもって耕作をし、獣への対策を施す。当然であるが遅霜への対応をしたり、旱魃への対応をしたりと気候との戦いもある。この労力と経費を会社的発想に変えれば、まずもって供給不安定な水を求めることを避け、延々と続く管理施設を捨て、気候の変化を受けない農法を採用することになるだろう。もちろん水をただで供給してくれるというのなら万々歳だろうが、そうでないとしたらかつてのこんな山間の農業は採算が取れないとすぐに解るはずで、ただでそのトータルの施設をいただけるといっても引き継いでくれる人たちはいないだろう。環境として山間で営むとしたら違う方法をとるに違いない。

 「人生を説く」において飯島吉晴氏が岩澤信夫氏の次のような言葉(『生きものの豊かな田んぼ』日本放送協会出版 2008)を引用した。「不耕作起と冬期湛水をくみあわせた自然農法の田んぼは生き物の楽園となり、多種多様な生物の働きで地力が高まり、雑草もはえにくく農薬や肥料を施さなくても、そこではイネは野生本来の力を発揮し、どこよりも立派なコメができるという。諸経費や労力、環境の点からもいいことずくめで普及してよいはずであるが、農機具や農薬・肥料メーカーの利害のほか、周囲に気兼ねが多く保守的で情報に疎い農村には容易には普及していないようである」と。そして「われわれは、うわべだけのニセモノの氾濫する世界ではなく、大地に足をつけた本物の生き方を構築し探求していく必要がある」という示唆を受け止めて農村社会が変化するような構造にないことか現実である。確かにこれまでも前述したような水利を捨て、違う方法で水を求めることはたくさん行われてきた。しかし、長年の経験と暮らしの変化への対応に不安を感じる人々も少なくなく、個人施設ならともかく共同施設でそれを実現するのにはその地域が一つになる必要があった。こういうケースでそれらをまとめ上げるのは、地域の役員であったり有力者であっただろう。ところが今はそういう場に立つ人がいない。年々変わっていく役員が担うには勇気とともにどうその意志を引き継いでいくかという問題も加わる。事業化するということが困難になりつつあるという事実をどれだけ行政も認識しているだろうか。行政はいざとなると「受益者が申請するものだから」という特定の人たちに特別扱いができないという公の言葉を発する。天秤にかければどちらが良いかなどということは解っても、それが容易にはできないことを第三者はあまり知らないだろう。それこそ環境を旗印に生態系だとか否コンクリートと口にする部外者にはまったく知る由もない。

 行政がそれぞれの立場に情報を発せられないとすれば、そうした役を担う人たちがいてもおかしくはない。もちろんそれは官民関係なくそうした人たちが現れてほしいものだ。採算は取れないだろうが、時には介護的な役割も持ち、時には人材センター的な役割も持ち、そして情報を把握して個人の情報を持ちながら地域をコーディネートしていく。そんなトータルな情報源的な人が必要だとは思わないだろうか。
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