Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「死」と「活」をめぐる生の葛藤

2009-05-18 12:50:58 | ひとから学ぶ
 「仏教は、生活問題ではなく、生死問題をどうすればよいか学ぶのである」と真宗大谷派『善勝寺報』528号で説明している。言うまでもなく今や寺は特別な存在ではあるものの、教えを伝えるという機能は働かなくなった。その原点に「生活」ではなく「生死」の教えがあるとすれば無理もないことである。今生きている者たちにとって、生死よりは生活が最重要な課題となる。とすれば生死を考える以前に、まず現在の生活を成り立たせなくてはならなくなる。同報の中でこの「生死問題」について「人間に生まれると、どんな人でも、歳を取り、病に冒されて、やがて死んでいかなければならない。いわゆる自分の生老病死をどう受け止めるかを学ぶのである」と言う。確かに生活の真っ只中にいて、どうすれば世の中を渡り歩いていけるか、儲けを出すことができるか、偉い人になれるか、などと考えている間にはなかなか考えの及ばない「生死」だろう。しかし、介護問題が溢れかえるように、兄弟が減り、家意識がなくなった現代においては、生死問題に直面している人を身のまわりに抱えている人は多いはずである。しかしながら現実的にその問題を自らの精神の中で解消しようとする余裕はなかなか生まれない。なぜならそれほど現代の時は早く流れ、次から次へと自らへ課題が降り注ぎ、また「生活」のために担わなければならない日々がやってくる。それを仏教が「救ってくれる」などと思えないのも仕方のないことなのだろう。

 そのいっぽうでは宗教へ心を奪われる人も少なくないのだろう。地方の落ち着いた空間に、忽然と現れる宗教系の建物も珍しくはない。考えてみれば若い世代、とりわけ受験に追われ、就職に追われ、人間としてのいわゆる「成功」を目指そうとしている世代をこの仏教の教えに照らせば、どう考えても別世界といえる。あたりまえのことで、もっとも「生死問題」とはかけ離れているのだから…。しかしながらその流れから溢れたのか漏れたのか、外れた者たちにとっては、考えられなかった別世界へ流れていく。そのひとつが救いを求めた教えの世界ということになるだろうか。「生死問題」という仏教に向くよりは、「生活問題」を説く教えに若い人たちが走るのも選択といえる。しかし、実は「生死問題」とはいえ、仏教は生死を扱っているいわゆるあの世のための教えだけではない。どこか無宗教化したわたしたちは葬式という現代風に言えば迷惑なものを仏教にトレースしてきたきらいがある。神のように生活をするために願うものは、{祭り」という願いや感謝を表現する機会があり、人々の生活問題と隣り合わせにあった。神道系の葬式にとって変わられようとする背景も、単純に経費だけの比較だけではなく、そうした身近さというものもあっただろう。仏教の代理店、あるいは営業所とも言えるだろうか、いわゆる身近にある寺が怠ったつけは(もちろんすべての寺ではないが)、とても大きなものとなって、寺院の退廃を招いていくことになるのだろう。
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