東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

日光

2024-07-24 20:14:56 | 日記
 音楽不毛の地、岩手県奥州市。
 
 ウィキペディアのフリーメイソンのところに日本のボーイスカウトとあって、少年団日本連盟の初代総裁の後藤新平はフリーメイソンと載ってる。大正11年(1922年)に少年団日本連盟ができたようだ。後藤新平が本当に岩手県奥州市の水沢の出身か知らないけど・・・。
 
 昭和24年(1949年)に財団法人ボーイスカウト日本連盟ができたみたいだけど、三島通陽という人は昭和26年(1951年)にボーイスカウト日本連盟の4代目の総長になったようだ。三島通陽は太平洋戦争の後に日本でボーイスカウト運動を広めた人で、三島通陽もフリーメイソンに入会したようだ。三島通陽はボーイスカウト日本連盟の前身の少年団日本連盟の設立当初から関わってるらしく、少年団日本連盟の初代副理事長らしい。
 
 二荒芳徳という人は少年団日本連盟の初代理事長で、太平洋戦争の後にボーイスカウト日本連盟の顧問と総コミッショナーに就任したようだ。二荒芳徳は愛媛県にあった宇和島藩の最後の藩主の伊達宗徳の息子らしいけど、北白川宮能久親王の息子の二荒芳之の養子になって明治42年(1909年)に家督を継ぎ、大正4年(1915年)に北白川宮能久親王の娘と結婚したらしい。二荒芳徳は昭和42年(1967年)に亡くなったらしい。
 
 江戸時代は輪王寺宮という役職の人がいて、輪王寺の門跡と寛永寺の貫主を兼務し、天台座主にも就いていたらしい。北白川宮能久親王は最後の輪王寺宮で、天台座主には就かなかったみたいだけど、戊辰戦争の時に奥羽越列藩同盟の盟主になったらしい。本当か知らないけど・・・。明治維新の後に還俗して北白川宮を継いで北白川宮能久親王になったようだ。
 
 北白川宮能久親王は陸軍の軍人で、日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にあって、明治28年(1895年)に北白川宮能久親王は日清戦争の後の台湾に出征して、マラリアにかかって台湾で亡くなったらしい。
 
 北白川宮能久親王には妻が何人もいたようだけど、愛媛県にあった宇和島藩の最後の藩主の伊達宗徳の娘は北白川宮能久親王の妻になって、北白川宮能久王と伊達宗徳の娘の息子の北白川宮成久王が北白川宮家を継いだようだ。白川宮成久王は大正12年(1923年)にフランスに留学中に車を運転していて事故で亡くなったらしい。
 
 次の北白川宮家の北白川宮永久王は北白川宮成久王の息子で、北白川宮永久王は陸軍の軍人で、昭和15年(1940年)に訓練中に不時着してきた飛行機がぶつかってきて亡くなったらしい。
 
 次の北白川宮家の北白川宮道久王は北白川宮永久王の息子で、北白川宮道久王の時に皇籍離脱して北白川道久を名乗ったようだ。北白川道久は平成13年(2001年)から平成19年(2007年)まで伊勢神宮の大宮司を務め、平成23年(2011年)から平成30年(2018年)まで神社本庁の統理を務め、日本会議の顧問も務めたようだ。北白川道久は平成30年(2018年)に亡くなったらしい。
 
 栃木県日光市にある日光東照宮と日光二荒山神社と輪王寺は江戸時代は一緒になってたようだけど、本当か知らない。輪王寺の山号は日光山のようだ。輪王寺には徳川幕府の3代目の将軍の徳川家光の墓所の大猷院があるらしいけど、ここが明治天皇の墓所の気がしたんだけど、まったく自信が無いなあ。
 
 日光二荒山神社では大己貴命と田心姫とアジスキタカヒコネを祀ってるらしい。大国主と大己貴命は違う気がするけど、大国主と大物主も違う気がする。
 
 日光二荒山神社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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