東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

キリスト教

2024-10-10 23:59:20 | 日記
 嘘八幡ですか・・・。
 
 イエス・キリストはユダの接吻で捕まったらしいけど、十字架に磔にされたイエス・キリストの頭の上に「INRI」というアルファベット4文字があって、イエス・キリストの罪状書きで、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という意味のラテン語の頭文字を取ってるらしい。イエス・キリストはナザレというところの人で、ユダヤ人の王を自称したというのがイエス・キリストの罪らしい。
 
 イエス・キリストの弟子にペトロという人がいて、ペトロはカトリックでは初代ローマ教皇とされているらしい。ウィキペディアで調べると、ペトロはケファと呼ばれていたらしく、ケファは岩の意味らしい。「私はこの岩の上に私の教会を建てる」とイエス・キリストに言われたことに由来するらしい。バチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂はペトロの墓所に建てられたといわれてるようだ。
 
 カトリックは分派が無くて、カトリックの中に~会という修道会が幾つもあるらしい。カトリックの総本山はバチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇が最高権威者でいいんでしょうか?。今のローマ教皇はイエズス会の人のようだ。
 
 キリスト教ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-10-10 23:58:04 | 日記
 嘘八幡ですか・・・。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。八咫鏡にはヘブライ語が刻まれてるという説があるらしい。八咫鏡にはモーセの前に現れた神が名乗った名前が刻まれてるらしい。
 
 モーセの前にイスラエルの人たちの先祖の神が現れ、エジプトにいるイスラエルの人たちを連れ出すように言ったらしい。モーセはイスラエルの人たちに神の名を教えなければいけないみたいに言って、自分の前に現れた神に名を尋ねてみたようだ。モーセの前に現れた神は「わたしはある。わたしはあるというものだ。」と答えたらしい。
 
 「わたしはある。わたしはあるというものだ。」って意味が解らないかもしれないけど、「わたしはある」という神らしい。ウィキペディアの日ユ同祖論のところを見ると、「我は有て在る者なり」とも書いてある。日本語に訳すと、そんなかんじらしい。
 
 八咫鏡ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-10-10 23:56:21 | 日記
 嘘八幡ですか・・・。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。
 
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治維新の後に宮家が増えたらしく、太平洋戦争の後に昭和天皇の兄弟の宮家以外は皇籍離脱したらしい。この人たちを旧皇族というらしい。
 
 明治維新の後、久邇宮朝彦親王から皇族の人が伊勢神宮の祭主を務めるようになったらしい。本当か知らないけど・・・。ウィキペディアで調べると、久邇宮朝彦親王が伊勢神宮の祭主だった期間は明治8年(1875年)から明治24年(1891年)までで、次の祭主が有栖川宮熾仁親王で明治24年(1891年)から明治29年(1895年)までで、次の祭主が賀陽宮邦憲王で明治29年(1895年)から明治42年(1909年)までで、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いたようだ。多嘉王が祭主になって大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで続けて、その次も臨時祭主が置かれて梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで続けて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。本当か知らないけど・・・。
 
 久邇宮家は久邇宮朝彦親王の息子の久邇宮邦彦王が継いだらしいけど、久邇宮邦彦王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后らしい。今の天皇家は久邇宮家と繋がってるらしい。
 
 太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。久邇宮家も太平洋戦争の後に皇籍離脱して久邇家になったらしいけど、インターネットで調べると、今の久邇家の人は伊勢神宮の大宮司らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-10-10 23:54:34 | 日記
 嘘八幡ですか・・・。
 
 江戸時代の藩も怪しいんだけど、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大は佐賀の乱があった時はイギリスに留学していて、日本にいなかったらしい。本当か知らないけど・・・。鍋島直大は明治11年(1878年)に帰国して、その後に外務省に務め、明治13年(1880年)から明治15年(1882年)まで駐イタリア王国特命全権公使としてイタリアに住んでたらしい。その後は日本の近代化政策に関わったらしい。鍋島直大は明治44年(1911年)から大正7年(1918年)まで皇典講究所の所長に就き、大正7年(1918年)から大正10年(1921年)まで皇典講究所の副総裁に就いていたようだ。鍋島直大は大正10年(1921年)に亡くなったらしい。
 
 鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いで、広橋真光の時に華族制度が廃止になったようだ。
 
 鍋島直大と栄子の娘の伊都子は梨本宮守正王の妻になって、梨本宮守正王と伊都子の娘の規子は広橋真光の妻になったらしい。梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 藤波家は中臣氏の系統の氏族らしいけど、藤波家は明治時代の前まで伊勢神宮の祭主を務めていたらしい。本当か知らないけど・・・。明治維新の頃の藤波家の藤波言忠という人は広橋家から藤波家に養子に入った人で、広橋賢光と鍋島栄子の兄弟らしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-10-10 23:52:56 | 日記
 嘘八幡ですか・・・。
 
 日本の歴史は嘘の気がするけど、戦国時代の福岡県には高橋氏がいて、高橋氏は高橋紹運と高橋元種の2つの家系に分かれたらしい。高橋紹運の息子の立花宗茂は柳川藩の初代藩主で、立花宗茂の兄弟の立花直次の息子の立花種次は三池藩の初代藩主らしい。高橋元種は宮崎県にあった延岡藩の初代藩主らしいけど、高橋元種は秋月氏から来た人らしい。秋月氏は戦国時代は福岡県朝倉市にいて、江戸時代は宮崎県にあった高鍋藩の藩主だったらしい。
 
 宮崎県にあった延岡藩は廃藩置県の頃は内藤氏が藩主で、延岡藩の内藤氏は延岡藩に来る前は福島県いわき市にあった磐城平藩にいて、いわき市にあった湯長谷藩の藩主も内藤氏だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 延岡藩の最後の藩主の内藤政挙は静岡県にあった掛川藩の太田氏から養子で入った人らしい。内藤政挙は昭和2年(1927年)に亡くなったようだ。次の内藤氏の内藤政道は内藤政挙の息子のようだけど、ウィキペディアを見ても、それ以上わからない。
 
 戊辰戦争の頃の湯長谷藩の藩主は内藤政養で、湯長谷藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府と戦って強制隠居させられ、明治44年(1911年)に亡くなったらしい。湯長谷藩の最後の藩主の内藤政憲は大炊御門家から養子で入った人で、内藤政憲は明治14年(1881年)に家督を譲って隠居して、大正8年(1919年)に亡くなったらしい。内藤政憲の息子の内藤政潔が継いだようだけど、それ以降、わからない。
 
 延岡藩の内藤氏の墓所も湯長谷藩の内藤氏の墓所も、神奈川県鎌倉市にある光明寺という浄土宗の寺にあるらしい。光明寺の山号は天照山のようだ。天照山蓮華院光明寺とHPに書いてある。延岡藩の最後の藩主の内藤政挙の墓は延岡市にある台雲寺という曹洞宗の寺にあるらしい。
 
 宮崎県西臼杵郡高千穂町には天岩戸神社があって、西本宮は天岩戸といわれる洞窟が御神体らしい。天岩戸神社のHPを見ると、西本宮は大日霊尊を祀っていて、東本宮で天照大神を祀っているらしい。大日霊尊は天照大神の別名らしい。天岩戸神社の近くには天安河原というところがあるらしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか