東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-10-08 23:52:49 | 日記

伊勢

2024-10-08 23:51:11 | 日記
 カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏は奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍頼時の息子が安倍貞任と安倍宗任で、安倍頼時は鳥海柵で亡くなったことになってる。
 
 山形県の遊佐町にある大物忌神社では大物忌神を祀っていて、秋田県側の由利本荘市の矢島町にも大物忌神社があるらしい。大物忌神は豊受大神と同じということになってるらしく、倉稲魂命と同じだったり、豊岡姫ともいうらしい。大物忌神社の御本社は鳥海山の山頂にあって、小学生の時に鳥海山登山をして行ったことがある。
 
 里宮のことを口ノ宮というみたいだけど、遊佐町に大物忌神社の蕨岡口ノ宮と吹浦口ノ宮があって、大物忌神社の蕨岡口ノ宮には江戸時代に三十三の坊があって、安倍頼時の子孫の坊の住泉坊は大物忌神社の蕨岡口ノ宮の別当を務めていたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 蕨岡まちづくり協会というところのHPを見ると、鳥海時雨郎という人は住泉坊の家の人で、明治時代に衆議院議員を務めたようだ。ウィキペディアで調べると、鳥海時雨郎は明治12年(1879年)から明治23年(1890年)まで山形県会議員を務め、明治23年(1890年)の第一回衆議院議員選挙に当選し、衆議院議員を一期務めたらしい。鳥海時雨郎は明治26年(1893年)に亡くなったらしい。
 
 鳥海哲四朗という人も住泉坊の家の人で、衆議院議員を務め、蕨岡村長を2回務めたようだ。ウィキペディアで調べると、鳥海家に養子で入った人らしいけど、明治32年(1899年)に山形県会議員になり、明治37年(1904年)の第九回衆議院選挙に当選し、衆議院議員を一期務めたらしい。明治40年(1907年)に蕨岡村の村長になり、大正2年(1913年)にも蕨岡村の村長になったようだ。鳥海哲四朗は大正3年(1914年)に亡くなったらしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の外宮は豊受大神宮というらしく、豊受大神を祀ってるらしい。豊受大神は内宮の祭神の天照大神の食事のために丹波から勧請されたことになってるようだ。
 
 伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、呪われた人生だったなあ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

安倍

2024-10-08 23:49:06 | 日記
 カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 平安時代に岩手県にいた安倍氏は奥六郡といわれる岩手県にあった6つの郡に勢力を広げてたことになってる。奥州市の隣の金ヶ崎町に鳥海柵跡があって、安倍貞任の兄弟の安倍宗任がいたことになってる。安倍宗任は鳥海三郎というらしい。安倍頼時の息子が安倍貞任と安倍宗任で、安倍頼時は鳥海柵で亡くなったことになってる。
 
 安倍貞任の息子の高星丸が津軽に逃げて安藤氏(安東氏)の祖になったらしいけど、安藤氏(安東氏)の発祥の地は藤崎町らしい。安藤氏(安東氏)は十三湊を拠点にしていて、安藤氏(安東氏)は戦国時代は秋田県にいたらしい。安藤氏(安東氏)は江戸時代は秋田氏を名乗っていて、福島県にあった三春藩の藩主だったらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 福島県にあった三春藩の藩主は秋田氏で、三春藩の最後の藩主は秋田映季で、明治40年(1907年)に亡くなったらしい。次の秋田氏の秋田重季は大原氏から養子で入った人で、秋田重季の時に太平洋戦争の終戦を迎えて華族制度が廃止になったようだ。
 
 安東実季という人が秋田氏を名乗ったらしいけど、秋田実季は国替えで秋田県から茨城県笠間市にあった宍戸藩に移され、幕府の命で三重県伊勢市の朝熊というところで隠居生活をさせられて亡くなったらしい。秋田氏は宍戸藩から福島県の三春町に移って三春藩の藩主になったらしい。本当か知らないけど・・・。
  
 ウィキペディアを見ると、秋田氏の祖を長髄彦の兄の安日彦とする系図があるらしい。秋田実季が記した秋田家系図に載ってるらしい。
 
 神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになっていて、長髄彦は奈良県の生駒山地のあたりにいたことになってるらしく、那賀須泥毘古や登美能那賀須泥毘古や登美毘古とも記載されてるようだ。
 
 天皇ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

橿原

2024-10-08 23:46:34 | 日記
 ほら吹き競演会ですか・・・。
 
 初代天皇の神武天皇は橿原神宮がある畝傍山で即位したことになっているらしいけど、奈良県橿原市にある橿原神宮では神武天皇を祀っていて、橿原神宮は明治23年(1890年)に創建されたらしい。本当か知らないけど・・・。
 
 橿原神宮のHPを見ると、明治44年(1911年)から橿原神宮の宮域の拡張や施設の整備事業が始まったようだ。大正4年(1915年)から大正10年(1921年)まで国費が支出され、帝国議会でも橿原神宮の拡張整備事業が可決されたらしい。整備事業は大正15年(1926年)まで行われたようだ。
 
 昭和10年(1935年)に当時の総理大臣だった岡田啓介が会長になって紀元二千六百年祝典準備委員会が発足したらしく、紀元二千六百年祝典準備委員会は紀元二千六百年祝典評議委員会ができて廃止になり、内閣には内閣紀元二千六百年祝典事務局が設置され、昭和12年(1937年)には恩賜財団紀元二千六百年奉祝会ができたようだ。それに合わせて橿原神宮の整備が進められていったらしい。
 
 昭和15年(1940年)の年初には橿原神宮からのラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節には橿原神宮では紀元二千六百年奉祝紀元節記念大祭が行われ、日本各地の神社でも大祭が行われ、11月10日には紀元二千六百年式典が皇居外苑で盛大に行われたらしい。この年には紀元二千六百年を記念した美術展覧会や天覧武道大会や児童唱歌大会や吹奏楽競演会なども行われ、日本各地の都市や東京や大阪の百貨店で展覧会が行われたらしい。記念切手も発売されたらしい。
 
 橿原神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

南方

2024-10-08 23:42:17 | 日記
 カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 南方熊楠という人は生物学者で博物学者で民俗学者らしいけど、南方熊楠は南方弥右衛門という人の息子らしい。南方弥右衛門という人は南方家に養子に入って南方弥兵衛と名乗り、家督を譲って南方弥右衛門と名乗ったようだ。南方弥右衛門は南方酒造という酒造会社を設立して、南方熊楠の弟が南方酒造の2代目を継いだらしい。明治40年(1907年)に大隈重信が酒の銘柄を世界一統に名付けたらしい。昭和46年(1971年)に社名が世界一統になったようだ。
 
 南方熊楠は和歌山市の出身らしく、和歌山県海南市にある藤白神社にある子守楠神社から熊楠の字を授かったらしい。藤白神社では物部氏の祖のニギハヤヒを祀っているらしい。
 
 ニギハヤヒは神武東征の話に出てきて、神武天皇よりも先に関西に来ていて、長髄彦の妹を妻にしていたことになってるらしい。神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになっているらしい。
 
 南方熊楠の墓は田辺市にある高山寺という真言宗御室派の寺にあるらしい。高山寺の山号は正南面山のようだ。南方熊楠は昭和16年(1941年)に亡くなったらしい。
 
 南方熊楠の脳は大阪大学医学部にあるらしいけど、この人は自分の頭脳に異常な執着心でもあったんだろうか?。頭がズキズキするような頭痛がしてきたりするんだけどさあ。日本の歴史は嘘の気がするけど、この人も関わってるとしか思えないんだよなあ。
 
 高山寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか