東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

京都

2021-04-15 20:55:38 | 日記
 頭痛がする。
 
 岐阜県郡上市の白鳥町の白鳥観光協会のHPを見ると、石徹白という集落があって、白山中居神社があるらしい。石徹白というところは江戸時代は、どの藩にも属さず、石徹白の人たちは名字帯刀を許されていたようだ。石徹白の人たちは白山の道案内をしたり、宿坊を営んだり、全国各地の信者に御札を配ったりしたようだ。
 
 石徹白というところにある大師堂には虚空蔵菩薩像があって、明治時代の廃仏毀釈を逃れるために大師堂に収められたようだ。奥州藤原氏の3代目の藤原秀衡の寄進と伝わってるようだ。
 
 たしかに、中尊寺の鎮守も白山神社だ。中尊寺は天台宗の寺だけど。
 
 奥州藤原氏は4代目の藤原泰衡の時に源頼朝に攻められて滅ぼされたことになっていて、平泉町にある中尊寺の金色堂には藤原泰衡の首が納められているそうです。ウィキペディアで調べると、藤原泰衡の首は昭和25年(1950年)に調査が行われたらしく、何ヶ所もの切傷や刺傷があって、眉間と頭の後ろのほうに釘が打たれたような跡があるらしい。鼻と耳が削がれてるようだ。
 
 藤原泰衡の首は藤原泰衡の兄弟の藤原忠衡の首と中尊寺では言い伝えられてきたらしく、首桶が入っていた箱にも忠衡公と書いてあるみたいです。
 
 奥州藤原氏の3代目の藤原秀衡の息子の藤原忠衡は平泉町にある柳之御所の近くに住んでいて、和泉三郎といわれるみたいです。
 
 京都にある泉涌寺という真言宗の寺に江戸時代の天皇の墓所があるみたいです。泉涌寺の塔頭に今熊野観音寺があるらしく、今熊野観音寺の山号は新那智山のようです。今熊野観音寺は後白河上皇と関係あるみたいです。後白河上皇は熱心な熊野信者だったらしく、27回も熊野詣に行ったみたいです。
 
 後白河天皇は譲位した後に院政を行ったようです。後白河上皇の時代には平家の栄華があり、源氏と平家の戦いがあって平家が滅び、奥州藤原氏も源頼朝に滅ぼされたことになってるようです。
 
 奥州藤原氏の話も作り話の気がするけど、一条なのか久我なのか、あの人たちの仕業なんだろうか?。
 
 泉涌寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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