東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

土宜

2024-08-16 16:14:36 | 日記
 疲れたなあ。いくら嘘を指摘しても、知らんぷりして無視する人っていうの?。そういう人の相手をするのって疲れるよね?。
 
 岩手県奥州市には掃部長者伝説という昔話があって、鎌倉時代の話ということになってるらしいけど、松浦小夜姫が来たらしい。掃部長者の屋敷跡には墓地があって、すぐそばに高山稲荷がある。農村集落にあって、田んぼに囲まれてるところに神社が建ってるだけみたいな神社だけど、明治時代に今の社殿が建てられたらしい。
 
 インターネットで調べると、奥州市に、うぐいす沢神楽があって、高山掃部長者という演目があるらしく、掃部長者の先祖は長髄彦の兄の安日だと言ってるらしく、後に安倍という名字を名乗るようになったらしい。
 
 それで、高山掃部長者は安倍さんでいいんだよなあ、たぶん。
 
 南方熊楠という人は生物学者で博物学者で民俗学者らしいけど、南方熊楠は和歌山県海南市にある藤白神社にある子守楠神社から熊楠の字を授かったらしい。藤白神社では物部氏の祖のニギハヤヒを祀っているらしい。ニギハヤヒは神武東征の話に出てきて、神武天皇よりも先に関西に来ていて、長髄彦の妹を妻にしていたことになってるらしい。神武東征の話では神武天皇の敵は長髄彦ということになってるらしい。
 
 南方熊楠は昭和16年(1941年)に亡くなったらしい。南方熊楠の墓は田辺市にある高山寺という真言宗御室派の寺にあるらしい。高山寺の山号は正南面山のようだ。
 
 京都にある仁和寺は真言宗御室派の総本山で、山号は大内山のようだ。仁和寺は明治時代の前は皇族の人が出家して住職を務める門跡寺院ということになってるらしい。
 
 土宜法龍という僧は西域やチベットを旅行して密教学研究の基礎を築いたらしい。土宜法龍は明治39年(1906年)から大正9年(1920年)まで仁和寺の門跡を務めたようだ。土宜法龍は金剛峰寺の座主にも就いたようだけど、真言宗連合総裁にも就いたようだ。土宜法龍は大正12年(1923年)に亡くなったらしい。土宜法龍は南方熊楠と往復の書簡をずっと続けていたようだ。
 
 インターネットで調べると、土宜法龍の墓は京都市右京区にある高山寺にあるらしい。本当か知らないけど・・・。高山寺の山号は栂尾山らしい。高山寺は真言宗御室派の寺だったらしいけど、昭和41年(1966年)に真言宗御室派から独立して、真言宗の単立寺院になったらしい。
 
 高山寺は明恵という僧の開山となってるらしく、高山寺の開山堂には明恵像が置かれてるらしい。明恵の御廟の近くに土宜法龍の墓もあるらしい。明恵は華厳宗の僧でいいの?。
 
 高山寺ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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