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沢村さんの沖縄通信・・・第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

2015-09-15 | ジョン万次郎に関する記事

第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月12日、豊見城市中央公民館で開かれた。新聞、テレビでお知らせしたこともあり、会場いっぱいの参加者で関心の高さを示した。
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歓迎アトラクションでフォレスト混声合唱団が「芭蕉布」などを披露した。団長は前夜祭でカチャーシーを演奏した高安勝利さんだった。「鼓衆しんか」は創作エイサーを勇壮に舞った。

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 講演会では、大城光盛沖縄ジョン万次郎会会長あいさつ(代読)、宜保晴毅豊見城市長の祝辞、万次郎直系、5代目の中浜京さん、土佐清水市の泥谷(ひじや)光信市長の来賓あいさつがあった。

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 京さんは、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをもって帰って来たことにふれ、「お互いに思いやる心があれば国家を超えた友情を持ち続けることができると思います」とのべた。 

  講演は、高知県で発行されている『土佐史談』の中浜万次郎特集号に沖縄から執筆したお二人が演壇に立った。とっても聞きごたえのある充実した講演だった。

 糸満市教育委員会総務部長で万次郎研究者の神谷良昌氏は「ジョン万次郎・琉球上陸の真実」と題して話した。

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 神谷氏は、万次郎が捕鯨船に救助された当時の捕鯨の実態やアメリカでの留学と帰国の準備にも触れながら、琉球に上陸した万次郎をなぜ那覇に入れず豊見城間切翁長村に滞在させたのかを詳述した。当時、英宣教師ベッテルハイムが那覇に滞在していることは幕府に秘密にしており、彼と会せることが危険と考え、遠い翁長村に戻したこと。王府の通事で万次郎の取り調べにあたった牧志朝忠が『ジョージ・ワシントン伝記』を借りて読み、大統領制度と民主国家の仕組みを理解した。2年後に琉球に来たペリー提督が那覇に石炭貯蔵庫を作りたいと申し出た際、「海岸に貯蔵庫をつくることはできない」と「ノー」と断った。万次郎の教えのおかげだと指摘した。琉球人が米軍に歴史上最初に「ノー」と言い切った瞬間だったとのべた。
                 

 沖縄電力元会長の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんは「『バジル・ホール館長の琉球』とジョン万次郎」と題して話した。有力企業の経営者がなぜ万次郎なのか。當眞さんは、小学生のとき「万次郎病」になり、この数年前から「万次郎病」が再発して研究してきたという。

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 万次郎が琉球上陸する前に、捕鯨船フランクリン号で訪れた琉球のマンビゴミレとはどこの小島だったのかをテーマに解明した。 

19世紀初頭に琉球に来航した英国海軍のアルセステ号、ライラ号の航海記録と海図を分析して、琉球島の海図には「マンビコミレ」とは一字違いの「マントゴミレ」が出ていること。当時ベストセラーとなったライラ号の航海記を万次郎は読んでいると思われることなどから、マンビゴミレは伊平屋(いへや)島であると結論づけた。ただ、琉球側の記録とは異なる面があり、久米島に「ウランダー・マンジラー」(ウランダーは外国人の総称)なる若者が上陸した伝承があり、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島と想定した。

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上陸目的は事前調査であり、琉球の人々は心暖かい人々であると確認したであろう。万次郎は、ライラ号など航海記を読み、マンビコミレ、久米島にも上陸してみて、「琉球に上陸して大丈夫だと考えて上陸したに違いない」とのべた。 

 このあと第4回ジョン万サミットin沖縄で土佐ジョン万会をはじめ各地で活動する団体から活動報告がされ、その後大交流会。13日はジョン万次郎宿道を辿るバスツアーがあったけれど、残念ながら私は別の用務と重なり参加できなかった。

 

前夜祭も盛大に

第4回ジョン万サミットin沖縄前夜祭が9月11日夜、豊見城市のJAおきなわホールで、高知県をはじめ県外からも大数参加して、盛大に開かれた。

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 会場には万次郎の出身地、土佐清水市の泥谷光信市長、土佐ジョン万会の内田泰史会長はじめ、高知からたくさんの方々が来ていた。懐かしい土佐弁が飛び交っていた。若い女性もたくさん参加していたのは頼もしい。 

 沖縄ジョン万次郎会の与那覇正文副会長の歓迎あいさつ、地元の宜保晴毅市長、泥谷光信土佐清水市長があいさつした。NHK大河ドラマに万次郎の採用をめざそうという両市長のあいさつに参加者も大きな拍手で応えていた。

 土佐ジョン万会の内田会長の音頭で乾杯した。  

 万次郎が半年間滞在した豊見城市翁長の高安家5代目当主、高安亀平さん、万次郎の子孫、5代目中浜京さん、高安6代目の方々も揃って記念撮影。

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 余興に入ると「あぁ万次郎」「とみぐすく万次郎音頭」など披露された。私にも歌三線で出てほしいというお誘いをいただいていた。未熟者だが、高知県出身で沖縄に移住し、沖縄ジョン万会のお仲間にさせていただき三線も楽しんでいるということで、厚かましいけれど出させていただいた。 

 「安里屋ユンタ」など3曲を歌った。高知からいらっしゃった88歳のおばあさんが、地元で「安里屋ユンタ」で踊っているといってとても喜んでくれた。

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 最後は高安勝利さんの三線で私もお手伝いして軽快なカチャーシー。会場は一つになってみんなが舞い踊った。 

 

ジョン万次郎 に関する記事 

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

2015-09-15 | ジョン万次郎に関する記事

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

高知県出身で沖縄在住の沢村さん(沢村さんの沖縄通信・・・でおなじみ)より、下記の文章をいただきましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

沢村さんより・・・この文章は、島袋良徳さんという方がもう30年ほど前に書かれたもので、出版もされないままになっていたものを、糸満市米須に在住する高知県出身の和田達雄さんが、手製の小冊子にまとめられて、それを頂いたので、その中から一部を抜粋してものです。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」

   

               冊子の表紙

                  裏表紙

 「糸満市公報」に1990年4月号から1995年6月号まで5年2カ月、「ジョン万次郎物語」が26回にわたり連載された。糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが執筆した。糸満市商工観光振興委員長の肩書である。

 島袋さんが万次郎研究にはずみをつけたのは、1966年に出された字米須の「要覧」だった。「口碑伝説」の項目に、万次郎の上陸地については、「その地点が摩文仁間切小渡浜といわれ」とあり「われわれはこのいわれをこの浜にむすんで永く記念したいものである」と記してある。「この結びの一節に強く心を動かされた」という。

 しかし、当時万次郎の小渡浜上陸は史実でないという意見もあり、万次郎のふるさと(土佐清水市中浜)を訪ねて多くの関係資料を見せてもらい、万次郎が1851年1月3日(旧暦)、摩文仁間切小渡浜に上陸したことを確かめて帰った。研究のかたわら、つとめて多くの方々と万次郎のことを語り合う機会をつくってきたという。

 「幕末から明治初期に至る日本の文明開化の夜明けに活躍したジョン万次郎は、帰国の時にこの地を選び、アメリカの文化を身体一ぱいに詰め込んで大度の浜に上陸しています。海の水は青々と澄み、風光明媚な浜辺には、明るい誇るべき真実の歴史があることを、より多くの市民に知っていただける機会になればと願いを込め」書き続けたと記している。以下、「ジョン万次郎物語」からの抜粋し要約して紹介する。

 

 捕鯨船に救われアメリカへ

万次郎は早く父を亡くし、貧乏な家に育ち、漁師になれば母に苦労をかけずに食べて行ける。そう決意してカツオ船に「かしき」(飯炊き)として乗り込んだ。船が遭難して5人が無人島に漂着した。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われ、船名から「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。半年後にハワイのホノルル港に停泊し、5人はハワイにとどまることになった。しかし、万次郎だけホイットフィールド船長に付いて捕鯨船に戻り、1年4カ月航海し、母港のアメリカ・ニューベッドフォードに入港した。その間に万次郎は英語を覚え、日常の会話に不自由しないほどになっていた。

 船長の郷里、フェアヘーブンに着いた。土佐では寺子屋にさえ行けなかった万次郎は、船長の計らいで小学校に入学し、16歳で勉強するチャンスをつかんだ。勉強熱心な万次郎は、成績を認められ上級のパートレット専門学校に進学した。英語・数学・測量術・航海術など高度な内容の授業にも人一倍の努力で勉強した。

 彼の勤勉さは有名で、1916年の地元新聞に「いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」という同級生の談話が載っている。勉強のかたわら、桶屋に住み込んで鯨油樽を造る技術も習得した。19歳の時、万次郎を見込んで米国一流の捕鯨船フランクリン号の船長が乗船を頼み、船員となった。

 母港を出帆して10か月目にグアム島に寄港した。万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。手紙は、これから琉球に行くことを告げ、「琉球上陸のチャンスをつかみ、捕鯨船が琉球で水や食糧を補給できるように私は琉球の開港に努力したい」と結んでいる。

 フランクリン号は小笠原諸島を西に進み、琉球列島のある小島に万次郎は上陸した。島の役人から牛2頭を贈られ、お返しに綿布を贈った。この島を「マンピゴミレ」と呼んだが、現在の何島であるかはっきりしない。

 フランクリン号は航行中に、デービス船長が発病し、後任選出を全乗組員で行い、万次郎は普通9~12年ほどたたき上げなければなれない一等航海士と副船長にわずか3年余の航海歴で選ばれた。父親同様のホイットフィールド船長は「ジョン、お前は西洋式航海術で世界を回った最初の日本人だ」とほめたたえた。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

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沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

2013-05-06 | ジョン万次郎に関する記事

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました


 

「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~」ができました。沖縄フォーク歌手、かでかるさとしさん作曲、作詞 日高博で、歌うのは、歌手の三田りょうさん。三田さんは、東京出身の歌手ですが、沖縄によく来て、RBCラジオで番組ももっており、ファンが多い人です。
 CDは「高杉晋作の歌~ああ青春奇兵隊~」とカップリング。

 

万次郎の人と歩みを簡潔にまとめたような歌詞です。曲調は、フォーク調でとても歌いやすい曲です。三田さんは、もともとはフォークソングを歌っていた人だそうです。

 

 

 

「ジョン万次郎の歌 忘れはしない~肝心(いむぐくる)~」

 歌 三田りょう 作曲 かでかる さとし 日高博作詞

 

 

1、土佐の男は「いごっそう」、黒潮育ちの万次郎。
14の時に海に出て 嵐に遭って流されて
助けられたが捕鯨船 自由あふれるアメリカへ。

2、ジョン万と呼ばれ、学ぶ日々、首席で卒業、万次郎。
七つの海をめぐりつつ 瞼にうかぶは、土佐の母。
あふれる知識を身につけて、ふるさと帰ると決めたのさ

3、 鎖国ニッポンそれならば、琉球めざす万次郎。
アレに見えるは糸満の、白波上げる小渡(うどぅ)の浜。
ふるさと離れて10年目、たどり着いたは豊見城(とみぐすく)。

4、島の人々優しくて、ここでも人気の万次郎。
三線の音(ね)に誘われて、夜が明けるまで、毛遊(もーあし)び。

ここも俺のふるさとよ、忘れはしない、肝心(ちむぐくる)。

5、坂本龍馬も驚いた、スゴイ男よ万次郎。
アメリカ帰りのあの男 世界のすべてを知っている。
幕末動乱、夜明け前 時代がお前を待っていた。


新しい ニッポンの礎(いしずえ)築いた 万次郎。
その名は中濱万次郎。

 

 沖縄では、2013年7月7日に、「とみぐすくカラオケサークル仲間達結成20周年」の集いで「三田りょう新曲発表会」も兼ねて披露されます。豊見城のカラオケサークル仲間達の会長さんは、沖縄ジョン万次郎会の事務局長でもあり、そんなつながりで、カラオケサークルの集いと新曲の発表会を兼ねています。 

 すでに県内では、RBCラジオの「団塊花盛り」などの番組で新曲が流されています。カラオケDAМでも、配信されています。

 

                       沖縄 沢村

 

 

 

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沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

2012-05-30 | ジョン万次郎に関する記事

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月27日、沖縄県豊見城市の社会福祉センターで開かれて、初めて出席しました。万次郎会は、私がブログにアップしてある「沖縄で愛される中浜万次郎」を書いた縁で、同会の新年会に招かれ、賛助会員にもしていただきました。
 総会は立派な議案書が作られていて、事業報告と計画、決算報告と予算案まで、しっかりと報告、提案され承認されました。報告の中に、私たち夫婦が新年会に高知県出身のゲストとして招待されたことも記されています。

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総会には、琉球に上陸した万次郎が、半年間滞在した同市翁長(おなが)の高安家5代目当主の高安亀平さん、豊見城市長らも出席された。
 これからの行事予定では、万次郎会が後援する「今こそジョン万次郎の勇気と努力に学びましょう」の講演会(6月9日)や久高島探訪の研修(7月)、シンポジウム(8月)、文化講演会(9月)の開催、そして土佐清水市で開かれるジョン万祭(10月)、万次郎忌の集い(東京、11月)への参加も予定されています。 結成20年を超えて、ますます旺盛な活動を進めている様子がうかがえます。

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 総会の後は、ジョン万次郎研究家の神谷良昌氏が「ジョン万次郎と牧志朝忠とベッテルハイムの遭遇」と題して講演しました。プロジェクターを使い、新しく見つかった史料、エピソードを盛り込みながら、とても分かりやすく興味深い講演で、参加者を魅了  しました。

                                     

絵は万次郎がアドベンチャー号で琉球に上陸しようとする場面。神谷氏の原案、儀間比呂志さんの絵による絵本『琉球に上陸したジョン万次郎』から。

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写真は、万次郎が琉球で半年間滞在した高安家。家の前に建つ衝立のようなものは、沖縄の家には必ずあったヒンプン。万次郎は、外に出る時はこの1㍍20㌢の高さのあるヒンプンを飛び越えて行ったそうだ。

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6月ウマチー(祭り)の大綱曳きの模様。万次郎も参加した。万次郎は、わずかな滞在の間に、ウチナーグチ(沖縄語)を覚えて、冗談もウチナーグチで話すほどだったとのこと。

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神谷さんによると、万次郎が琉球の大度海岸に上陸したさい、聴取にあたったのが当時、首里王府で異国通事と外務次官のような役職にあった牧志朝忠だった。朝忠は、万次郎からアメリカの政治制度、一般の国民から大統領が選挙で選ばれ、任期は4年、大統領をおりれば一般の国民に戻ることなど詳しく聞いた。万次郎が上陸したさい、アドベンチャー号に積んでいた数冊の本の中で、初代大統領のジョージ・ワシントンについて書かれたものを、朝忠はとても読みたかったので、夜通し本を筆写して、まだ終わらないので借りて読んだという。
 その後、ペリーが琉球に来た際、通訳にあたった朝忠は、ペリーの部下が琉球に不当なことを要求したが、朝忠は、ジョージワシントンを生んだ国でこんな不当なことを押しつけていいのか、とただした。米側は、琉球のような小さな島で、ジョージ・ワシントンのことを詳しく知っているのに驚いて、ペリーに報告し、要求を取り下げた。
 万次郎が朝忠にもこんな大きな影響を与えていたことなども、神谷氏は話しました。
ベッテルハイムとは当時、イギリスから琉球に来ていた宣教師で、薩摩藩と王府は、万次郎がベッテルハイムと接触するのを恐れて、那覇市に連れて行こうとした万次郎を、隣りの豊見城市で一番遠い翁長に戻して留置いたとのことでした。

また、坂本竜馬がつくった亀山社中は日本で初めての株式会社だけれど、これは万次郎が伝えたアメリカの政治や社会の仕組みなどの情報を知って、竜馬がつくったものだったと話していました。

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会には糸満市からも初めて5人が参加しました(上写真)。というのは、万次郎が上陸した糸満市の大度海岸に、万次郎がこの地に上陸したことを示す記念碑を建立する計画があるそうです。出席者の一人は、なんと高知市の出身で大度海岸近くの米須に住んでいるとのこと。新たな高知出身者が現れ、私も挨拶を交わしました。

 講演の後は、懇親会。ちょうど私の隣に座った男性は、兵庫県から豊見城市に移住してきたばかりで、万次郎会のことを知って初めて参加したとのこと。万次郎ファンが増えていることは嬉しい。

 懇親会では、カラオケも置かれて、大城光盛会長を始め自慢ののどを披露しました。
 私も余興を予想して三線を持参。ツレと二人で、戦後、捕虜収容所のあった名護市の二見(ふたみ)の思い出を歌った民謡「二見情話」を歌いました。
 一節ごとに拍手をいただき、ありがたかったです。高知出身なのに歌三線で沖縄民謡を歌ったので、ビックリという感じ。「上手でしたよ」「二見情話はいい曲ですよね」「私もいま練習しているところですよ」と何人も声をかけてくれました。2人とも舞台に上がったので、残念ながら写真はありません。

  

 

 

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2012-05-30 | ジョン万次郎に関する記事

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

2012-01-30 | ジョン万次郎に関する記事

タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

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これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

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記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

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万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

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2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

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「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

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会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

 

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2

2012-01-30 | ジョン万次郎に関する記事

元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

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牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

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業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

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牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

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 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

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一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

 

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沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎記念碑

2010-09-27 | ジョン万次郎に関する記事
中浜万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸し、半年間滞在した豊見城市翁長(とみぐすくしおなが)に、ジョン万次郎記念碑が建立され、9月12日に除幕式が行われた。

この碑は、沖縄ジョン万次郎会が昨年11月から20周年記念事業として計画し、約150万円をかけ建設した。





 万次郎は、1851年、糸満市の大渡海岸に上陸し、薩摩藩の取り調べを受け、琉球王府から滞在を命じられ、豊見城の翁長で半年間過ごした。滞在した高安家から手厚いもてなしを受けたといわれる。





 碑文は「半年の間、我豊見城村の先代は、万次郎に温情あふれる接遇をしました。日本開国の先駆者ジョン万次郎が翁長に滞在された史実と、人間味あふれる先代の行動に感謝し、この地に記念碑を建立する」と記されている。

「とみぐすく万次郎音頭」という歌も作られ、碑の横にその歌詞や万次郎の経歴・年譜を記した看板も建てられている。


 碑が建てられた場所は、翁長の翁長共同利用施設の前庭であり、用地は翁長自治会が無償で提供したという。約120人の個人・団体から寄付が寄せられたという。

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沖縄で愛される中浜万次郎 その5・・・万次郎から勉強した島津斉彬
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沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その2
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その1


沢村さんの沖縄通信

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2010-06-14 | ジョン万次郎に関する記事
ご無沙汰しています。変わりありませんか。
ジョン万次郎について下記のようなことがあるのでお知らせします。

 ジョン万次郎がアメリカから日本に帰る際に上陸した沖縄で、万次郎の記念碑を建立する計画があります。
準備しているのは、日本開国の先駆者である万次郎を後世に語り継ごうという「沖縄ジョン万次郎会」です。

会は、結成20周年の記念事業として、万次郎が半年ほど抑留されていた豊見城市の翁長(おなが)という場所に予定しています。この記念碑は、9月12日に除幕式を開くことにしており、いま基金協力を呼び掛けています。


 万次郎は同市翁長の高安家に軟禁されていました。万次郎は役人から取り調べを受けましたが、一方で地元の住民とも交流し、手厚くもてなしを受けたそうです。

豊見城市と万次郎の生まれた土佐清水市は、毎年、少年野球大会を開くなどいろいろ交流がされています。記念碑ができれば、万次郎の功績を沖縄で伝える上で役立つでしょう。

沖縄通信・・・ジョン万カップ少年野球交流大会


沖縄で愛される中浜万次郎 その6・・・明治維新、自由民権運動にも影響が
沖縄で愛される中浜万次郎 その5・・・万次郎から勉強した島津斉彬
沖縄で愛される中浜万次郎 その4
沖縄で愛される中浜万次郎 その3・・・琉球で綱曳きにも参加した
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その2
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その1


沢村さんの沖縄通信

ジョン万次郎ファンクラブ

土佐清水市ファンクラブ

足摺・・・ジョン万次郎の生家・中浜1

2010-01-02 | ジョン万次郎に関する記事
土佐清水市中浜の

ジョン万次郎(中浜万次郎)の生家跡を訪ねました。


鰹節を造る工程で、煙でいぶすための広葉樹の蒔きが沢山積まれていました。鰹節製造が盛んなことを物語っています。


中浜の港の防波堤には、地元の区長さんたち有志が、ジョン万の生涯を一目で分かるようにと、パネル16枚を展示していました。








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