嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

重要性の重要性①:ダメな重要性

2006-01-19 19:45:15 | ディベート
先の第3回東北ディベート交流研修会。

3日目の午前中の練習試合、準決勝と決勝の審判をブッチすることになってしまったお詫びとして、試合開始の前に30分ほどお話を頂いて、掲題の話をさせていただくことにした。

以下、その時の内容を編集、再構成しながら、論じてみよう。

*****

「重要性の重要性」を強く意識したのは、2003年の第8回ディベート甲子園、高校の部の試合を見たときだった。

論題は、

「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである。是か非か」
*積極的安楽死とは、延命治療の中止以外の手段により、意図的に患者の死期を早める行為とする。

古典的な論題である。

ところが、全国大会に勝ち上がってきた学校ですら、大方の肯定側の説明は、

「患者が救われるから」
「患者がそれを望んでるから」 云々

で終わってしまっていた。

・・・そうじゃないでしょうに。

立論を聞くたびに、いつもそう感じていた。


要は、

1.このディベートで問われるべきなのは、積極的安楽死に対して「社会的なOKを出していいのか」どうか。

2.しかし「患者のOK」は、必ずしも、「社会のOK」を意味しない。

3.それなのに、どうして、そこで説明止めちゃうのかなー。まったく解せない・・・

ということであった。


●まず2.について。

「当事者がよければ、その行為は社会的に是認・奨励される」とは、限らない。

当事者はハッピーだが、社会としては看過できないことなど、いくらでもある。

 イ、選挙の買収はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは、一票もらえてハッピー。

 ロ、人身売買はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは、奴隷をゲットできてハッピー。 

 ハ、売春はどうだ。私は、お金をもらえてハッピー。あなたは気持ちよくなってハッピー。

 ニ、公共の場所への産業廃棄物の投棄依頼はどうだ。私は、ゴミがなくなってハッピー。あなたは金を稼げてハッピー。

・・・じゃ、全部、解禁しましょうか?

ついでに、お尋ねしておこう。

 ホ、私は死にたい。あなたに手を貸して欲しい。私は、死ねてハッピー。あなたは、人助けをしたのでハッピー。

それ、「手の込んだ自殺幇助=積極的安楽死」を、解禁するに足る十分な理由になってますか?

つまり、

→ 部分にとって望ましくても、全体にとっても望ましいとは限らない。
→ この論題では、安楽死による「患者のハッピー」を論じただけでは、「社会的にOK」を論じたことにはなっていない。


●次に1.について

「社会的にOK」になるかどうかは、その社会の状況や先行して存在する公共哲学との整合性・相互関係に依存する。

A. 古代スパルタでは、「人から物を盗む」ことが、社会的に奨励されていた。物を盗まれたら、間抜けを懲らしめる意味で、窃盗の「被害者」の方が処罰された。

B. 日本でも、江戸時代までは、「仇討ち」であれば人を殺しても罪にはならなかった。むしろ、それは社会的に奨励されていた。

もちろん、窃盗も仇討ち殺人も、現代の日本社会では「法的に禁止」、すなわち社会的に抑止されている。

そして、そこには何ゆえ社会としてそれを禁止行為にしたのか、ちゃんとした【説明・理由】が存在する。

であれば、

→ 「社会的にOKである」と論じるには、肯定側の考える「望ましき社会像=公共哲学」を、できれば明示的な説明、少なくとも暗示する議論が必要になる。
→ この論題では、「(社会の一部たる)患者のハッピー」を「積極的安楽死」によって、実現することがどうして「社会的に望ましい」のかについて、もう一段階、説明が要る。

ということである。


●3.について

重要性が説明不足では、勝つのは難しい。

勝てたとしても、それはたまたま相手が弱かっただけだ。

そもそも、

「なぜ論題を採択すべきなのか」

が納得できなければ、ジャッジは肯定側に投票できないのである。

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次回は、昨年の炭素税論題を例にとって、「重要性の論証のやり方」をさらに考えてみたいと思う。


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