釈尊は、過去世の宿業によって現世が決まり、現世の行為によって未来世が決まる。
つまり、衆生の生死の中に、生命の因果の理法があることを洞察した。
また、釈尊は、あらゆる不安や迷いという無明の闇が、知恵の光明によって照らされ晴れるのを感じた。
夜は更けていく。
釈尊は、大宇宙と自己との合一を感じながら、さらに洞察を進めていく。
東天に、明けの明星がきらめいた。
その瞬間、電撃のような感動が、釈尊の五体を貫いた。
<これだ!>ついに釈尊は、究極の大悟を得た。
そして、仏陀となったのである。
釈尊のつかんだ真理は「これがあれば、これであり。これが生ずれば、これ生ず」という万象のありのままの姿を如実に照らしだしていた。
―大宇宙も人間も、時々刻々と変化と生成のリズムを刻む。
その変転やむことのない森羅万象は、何かを縁として生じ、滅していく。
一切は、空間的にも時間的にも、相互に連関し合って「縁として起こる」のであり、それぞれが、互いに因でもあり果もあり、縁でもある。
しかも、それらを貫く「生命の法」がある。
ところが人は、この真理をいまだ知らず、欲望のとりこにされている。
永遠不変の真理である「生命の法」に目を閉ざしてしまう無明ことが、諸悪の根源であり、生老病死という人間の苦悩の根本原因にほかならない。
その無明とは、自身の生命の迷いである。
ゆえに、無明という己心の悪と対決する先にこそ、正しい人倫の道は開かれるのだ―
一切の迷いから離れた英知で、生命の実相を見つめる覚者の頬は、曙光を浴びて紅潮していたの違いない。
自分自身に仏の生命が具わることを信じられない―それが無明である。
つまり<不信の生命>に一切の不幸はここに起因する。
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