大島孝雄は、外語大学でロシア文学を学んでいた。
彼が信奉したのは、ドストエフスキーの文学であり、特に「罪と罰」に深く心を思い入れた。
また、ドストエフスキーがシベリアに流刑されことが、自分のシベリア抑留者としての過酷さと重なった。
彼がロシア語が話せたことが抑留者として僅かながら優遇されることにもなる。
彼は、同棲した金井ヤスに対して、シベリア抑留者としての立場を明らかにすることはなかった。
そして「生まれてくる子には、罪はないからね」とヤスを諭したのである。
大島は、戦前は産経新聞の記者であったが、徴兵され関東軍の兵士となる。
彼にとって、大きな悲劇は東京・両国に住んでいた妻子が、父母と共に東京大空襲禍で亡くなっていたことだった。
彼は蒲田の居酒屋で、妻子や父母を深く偲びながら酒を飲んでいた。
そんな日々に、出会ったのが居酒屋で働く17歳の金井ヤスだった。
彼が絶望に堕ちらなかったのは、言うまでもなく人の情愛であった。
日本に帰還して、先輩の招きで東京お茶の水の出版社に職を得ることもできた。
参考ドストエフスキー死の体験と流刑
ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。
死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて(この一連の特赦は全て仕組まれたものであった)、シベリアに流刑へ減刑となり、オムスクで1854年まで服役する。
この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。
他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。
刑期終了後、セミパラチンスクにおいて兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。
この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。
その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。
ドストエフスキーは、ソルジェニーツィンやチェーホフ、ニーチェ、サルトル、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、日本人では、黒澤明、湯川秀樹、小林秀雄、大江健三郎、村上春樹、三島由紀夫、埴谷雄高などの多くの人物に影響を与えた。
『罪と罰』は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの長編小説。
ドストエフスキーの代表作であり、世界的な長編小説の一つしても挙げられる名作である。
「現代の預言書」とも呼ばれ、ドストエフスキーの実存主義的な考え方を垣間見ることができる。
1866年に雑誌『ロシア報知』に連載。
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