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一流の文学的コメディアン
―柴田元幸さん訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』刊行記念!柴田さん独占インタビュー・イベントレポート!
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2018年2月16日
こんにちは、ブクログ通信です。
ポール・オースター、スティーヴ・エリクソン、スティーヴン・ミルハウザーなど数々の現代英米文学の翻訳、また村上春樹さんとの交流でおなじみの、米文学研究者・柴田元幸さんの待望の新訳、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』が2017年12月20日に刊行されました。
今回、ブクログ通信は『ハックルベリー・フィンの冒けん』刊行記念としてて1月24日(水)青山ブックセンター本店で開催された「『ハックルベリーフィンの冒けん』と翻訳 柴田元幸トークイベント」に潜入!
なんとイベント直前に貴重なお時間をいただき、柴田元幸さんへの独占インタビューが実施できました!まずはそのインタビューからお届けします!
取材・文/ブクログ通信 編集部 持田泰
著者:柴田元幸(しばた・もとゆき)さんについて
翻訳家、東京大学文学部名誉教授。東京都生まれ。ポール・オースター、レベッカ・ブラウン、スティーヴン・ミルハウザー、スチュアート・ダイベック、スティーヴ・エリクソンなど、現代アメリカ文学を数多く翻訳。2010年、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(新潮社)で日本翻訳文化賞を受賞。マーク・トウェインの翻訳に、『トム・ソーヤーの冒険』『ジム・スマイリーの跳び蛙―マーク・トウェイン傑作選―』(新潮文庫)、最近の翻訳に、ジャック・ロンドン『犬物語』(スイッチ・パブリッシング)やレアード・ハント『ネバーホーム』(朝日新聞出版)、編訳書に、レアード・ハント『英文創作教室 Writing Your Own Stories』(研究社)など。文芸誌『MONKEY』、および英語文芸誌Monkey Business 責任編集。2017年、早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。
イベント直前!柴田元幸さん独占インタビュー!
―お忙しい中お時間いただきありがとうございます。またマーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒けん』(以下『ハック・フィン』)刊行おめでとうございます!あとがきにも記載がありましたが、『ハック・フィン』の訳出が始まったのが2003年頃で、刊行がようやく2017年ですから、ほぼ14年ぐらいかけてこの本一冊を仕上げたということですね。こんな長期にわたって翻訳をされることは柴田さんでも珍しかったりするのですか。
いや、別に翻訳だけで14年かかったわけではありません。その間に他のこと、たとえば僕は雑誌も編集してますし、短期の締め切りの翻訳仕事、それから2014年まで大学で教えてもいましたから、単行本の翻訳仕事というのはどうしても後回しになります。かつ、この本の場合は早くやらないと翻訳権の契約が切れてしまうということもないですから。古い本なので。
―既にパブリックドメインですものね。
そうです。なので、ずっとやりたいとは思ってたんだけど、なかなか纏まった時間が取れないで、ずるずる2017年まで来てしまったわけですが、2017年はこの版元の研究社が110周年なんですね。そのタイミングになんとか間に合わせたんです。『ハック・フィン』は研究社で出すってことは以前から決まってはいたんで。これを逃したらもう次は120周年ですよね(笑)。120周年だとぼくはもう70超えてますよ。だからここの編集者さんが、その頃はもうコイツはちょっと危ないだろうと思ったのか(笑)「110周年で出しましょう!」って発破をかけてくれたんですね。それで僕も「やろう」と思ってからは、これに集中して。
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待望の柴田元幸訳!マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒賢』(研究社 2017年)</figcaption>
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―そうだったんですね。この110年のタイミングに締め切りを合わせた。
そうですね。でまあ、奥付的には刊行日が12月28日で。
―なるほど。110年もぎりぎりですか。
ぎりぎりセーフ(笑)。
――そういうことだったんですね。過去のさまざまな翻訳者もそれぞれの口語体でこの『ハック・フィン』を訳出されていたかと思うのですが、今回、柴田さんは、ハックのリテラシーレベルに合わせて漢字を開くとか、独特の言い間違いとかを、上手に表現されていて、また逃亡奴隷ジムや後半のトム・ソーヤー(以下「トム」)との掛け合いなんかも漫才の話芸みたいな独特なグルーブがありますね。全体が『新しいハック・フィン』だなと、すごく感じております。
ありがとうございます。
―今回その「ハック英語」とあとがきにも書かれていましたが、そのハックの独特の誤字脱字を含んだブロークンな英語を訳すのに、けっこうな苦労をされたかと思うんです。ハックの英語の特徴というのは端的にどういうものなんでしょうか。
それはまさに今日のイベントのテーマで、「正しくない英語の雄弁さ」っていうものがあると思うんです。『ハック・フィン』に限らずアメリカ文学の名文みたいなのを考えると、登場人物があからさまに訛った英語だったり、教養を感じさせないような英語だったりすることが往々にしてあるんです。
―なるほど。
今まで日本は、どうしても『ハック・フィン』を含めてアメリカ文化ってものを仰ぎ見てきましたから、「無教養」みたいなものが今一つ見えにくかった。でも僕だけでなく、アメリカを見る目がだんだん「仰ぎ見る目」から「対等に見る目」に変わってきた。その中で、ハックみたいな人物を見る目も変わって来ていると思うんですよ。だから、たとえば新潮文庫の村岡花子さんの訳では、ハックが一番最初に語りかける ” You ”を「諸君」っていう風に訳すんですけど、今は違うだろうと。村岡さんの時代は1950年代ですよね。50年代には、ハックが「諸君」と語りかける方が正しく思える。そういう別の文化の空気があったと思うんですよね。だから僕の訳のほうが正しいってことじゃなくて、『ハック・フィン』を読む「文脈」が変われば訳も変わる。
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原作挿絵よりhttp://www.gutenberg.org/ebooks/76</figcaption>
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周辺的なハック・フィンが輝く
―ハックは基本ノーアイデア・ノープランで手ぶらで旅を続けながら、「その場でしのいでしまう」ことが多いですよね。プラグマティックに頭を働かせて。
そう。勘が良いんですよねハックは。だから、その場その場でどういう風に振る舞ったらいいかっていうのを勘で捕まえてくる。その反射神経はすごくいいですよね。小説自体もそういう書かれ方だし。
―第32章でも「その時になったら神さまがただしいコトバをおれの口に入れてくれるものとあてにしていた」と書かれていましたが、こういう表現は変ですけど、英語文法がブロークンでも、ある種の「言語ゲーム」的にルールが分からないままゲームに参加して、ゲームをすすめながらルールを覚え、巻き込まれながらその場をコントロールしていくような。
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原作挿絵よりhttp://www.gutenberg.org/ebooks/76</figcaption>
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その通りですね。そうやって、言葉を一種ゲーム的に使って、世界を動かしてくっていう意味で言えば、この中に出てくる悪党たちも全く同じなんですよね。あの「王さま」と「侯爵」とかも同じなんだけど、ただ彼らはやっぱり言葉によって、他人を操作して、場合によってはその他人を傷つける。ハックは自分を守るため、もしくは誰かを守るために言葉を使う。だけど、ほとんど必要ない時でも、ハックって嘘つきますよね。
―ついてますよね。だから頭が切れるというより、本当に「神さまがただしいコトバをおれの口に入れてくれるものとあてにしている」感じで、独特なおかしみが生まれますね。そこもトムとはちょっと違う形で。トムは変に過激な方へ過激な方へ動いて行ってしまいますが、ハックはハックですごく手ぶらで先に進んで行ってしまうけれども、やはりリアリストで。
トムはやっぱり権威主義ですね。
―なるほど。
だから「本にこう書いてあったから」と前例ばかり出しますね。
―そのトムとハックと一緒にいるときの掛け合いは独特なおかしみが出てきますね。マーク・トウェイン自身はどっちに自分を投影しているんでしょうか。
うーん、自分はトムみたいだけど、ハックみたいになりたいと思ってるんじゃないですか。『トム・ソーヤーの冒険』と比較するとよく分かるんですけど、トムはほんとにハックになりたくてしょうがないわけですよね。『ハック・フィン』の中では、ハックが「トムだったらどうやるだろう?」てよく思うシーンも多いけれど、『トム・ソーヤーの冒険』ではもっと強い形で、トムは「ハックみたいに生きたい」と思ってるし、『トム・ソーヤーの冒険』っていうわりと「お行儀のいい小説」も、本当は『ハックルベリー・フィンの冒けん』みたいな小説になりたがっている感じがすごくよく分かる。
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柴田元幸さん訳『トム・ソーヤーの冒険 』(新潮文庫 2012年)</figcaption>
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―なるほど。「小説の構造」自体が、ですか。面白いですね。
要するに、ハックのほうが「より周縁的」なんですよ。アメリカ文学って、大体その「周縁の人間が輝く」っていう構図になりますから。
文学的でないものが、本当は文学的なんだという態度
―ヘミングウェイもこの『ハック・フィン』を取り上げて、「今日のアメリカ文学はすべてマーク・トウェインのハックルベリー・フィンという1冊の本から出ている」と書いていますね。
要するに、アメリカってヨーロッパの「延長線上」でもあり、ヨーロッパの「否定」でもあるわけじゃないですか。つまり、ヨーロッパで「自由」とか「平等」の概念が生まれたとすれば、アメリカはそれをより拡大した。まあ実は、インディアンの迫害とか、黒人奴隷とかいて、その理想がきれいに実現されたわけではまったくないけれど、とにもかくも、例えば「貴族制」みたいなものを廃止して、ヨーロッパで生まれた「自由」や「平等」という概念をアメリカは拡張したので、見方を変えれば、そういう「貴族制」とかそういうヨーロッパ的なものを「否定」して、アメリカという国ができてる。
だから「ヨーロッパの延長線上」なのか、それとも「全然違うモノ」を作ってるのか。とても微妙なところがありますよね。その中で、ヨーロッパで生まれた近代文学ってものに対しても、やっぱりアメリカは、その文学性みたいなものを「否定」するところから始まってると言ってもよいと思うんですよ。もちろん「継承しつつ否定」です。だから、「文学的でないものが、本当は文学的なんだ」っていう態度が、アメリカ文学は非常に強い。それが一番よく表れてるのは『ハック・フィン』ですね。
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原作挿絵よりhttp://www.gutenberg.org/ebooks/76</figcaption>
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―なるほど。その「文学的でないものが、本当は文学的」という作品が1885年刊行ですから、もう130年以上前ですよね。それが今でも全然面白く読める。もちろん差別表記とか歴史的に問題にもなったりもしましたが、通奏低音の価値が変わらない部分、もちろん変わってる価値観と変わらない価値観があるんですけど、このハックが奴隷を逃がして「地獄へ行こう」と決意するあたりは、われわれ現代人も深い感銘を覚えますね。
そうですね。読者が当時の価値基準を分かってくれさえすれば、今でも作品に共感してもらえると思いたいですね。
―ただ、あとがきで書かれてたのが、作品の中身は「黒人を逃がさないことが良心」の時代設定で書かれてますけど、トウェインが書いた頃黒人は解放されつつあったのでしょうか?
奴隷制自体はもうなくなっています。でも、差別はいろんな形で、残ってたわけですね。ようするに「人は売買ができなくなった」けれど、たとえばこの時代に黒人と白人が結婚できたかっていうと、それはありえないわけです。そもそも、ハックとジムが「白人と黒人が筏で一緒に旅をする」って、いくらハックが浮浪児とはいえ、その設定自体一種のファンタジーなんですよね。
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原作挿絵よりhttp://www.gutenberg.org/ebooks/76</figcaption>
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―だからなのか、そのハックとジムがミシシッピを下りながら、ほんとその「自由」ですよね。ほんとアメリカ人が一番愛するであろう「自由」の精神が、最後まで低いところにずっと流れているような。なにか「安心」や「権威」にも頼らないで、なんていうかその「俺は学もないから偉い人のいうことなんかよくは分かんねえけど行きたい道を勝手に進むよ」みたいなスタンスで。だから「ザ・アメリカ小説」っという感じがすごくしますね。たとえばその精神はケルアック『オン・ザ・ロード』にまで連綿と受け継がれていくのでしょうか。
そうですね。なんかとにかく、アメリカは「じっとしてるっていうのはダメ」なんですよ。常に動き続けてることで、ある種生きることの実感が生まれるっていう。『オン・ザ・ロード』なんかまさにそうですね。
―最後に簡単な質問なんですけど、今後柴田さんが、マーク・トウェインのあと、なにか訳される予定っていうのは今教えていただける範囲でありますか?
たくさんあるんですけど、ほとんど、僕は生きてる作家の翻訳をやってるので、スティーヴン・ミルハウザー、ポール・オースター、スティーヴ・エリクソン、ケリー・リンク、他にもまだいるんだけど、そういう作家の新作を訳します。古典はとりあえずもう訳さないかな。
―そうなると今回の『ハック・フィン』は貴重なものですね。
でももうちょっと英語読めるようになったら、もう一つの、「グレートアメリカンノベル」であるメルヴィル『白鯨』も訳したいとは思っています。
―そうですか!『白鯨』も訳者によってだいぶ文章が違いますね。
そうですね。でも『白鯨』の既訳はいいのがたくさんあるので、僕がやる必然性はまあまだないと思ってるんですけど。
―なるほど。柴田訳『白鯨』も出す機会ありましたらぜひ!本日はありがとうございました!それでは、イベント楽しみにしております!
ありがとうございます。
イベントレポート!「喋っている」のではなく「書いた」小説
イベント直前の突撃インタビューでしたが控室で快く受けていただきました。まもなくイベント開始時刻。感謝の気持ちを抱えていざ会場へ!
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青山ブックセンター本店の会場は満員御礼!</figcaption>
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100名ほど収容できる会場は満席で大盛況。イベントは『ハックルベリー・フィンの冒けん』の英語と翻訳について実際に英語の原文を見ながらお話しされるのに加えて、事前に参加者から受け付けた質問にできる限り回答するスタイルで進行しました。『ハック・フィン』の英語について、柴田先生は次のように話されました。
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会場入り口で『ハック・フィン』も販売!イベント終了後は希望者へサインも!</figcaption>
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「この小説は過去の翻訳でも『ハックが喋っている』かのように読めるが、『綴り間違い』や『文法ミス』が原作の中に散りばめられているように、明らかに『ハックが書いた』という設定でマーク・トウェインは作っている。『喋っている』『書いている』この両方を再現する必要がある」。この点を柴田さんは改めて強調し、過去の翻訳では「ハックにしては『漢字』が書けすぎている」ことを指摘。「ここに『新訳』をだす余地があると思った」。今回「ハックが日本人であればあまり漢字が書けなかったであろう」という設定のもとで、積極的に漢字を開く形で訳出されたそうです。
「トム・ソーヤーの冒けん」てゆう本をよんでない人はおれのこと知らないわけだけど、それはべつにかまわない。あれはマーク・トウェインさんてゆう人がつくった本で、まあだいたいはホントのことが書いてある。ところどころこちょうしたとこもあるけど、だいたいはホントのことが書いてある。べつにそれくらいなんでもない。だれだってどこかで、一どや二どはウソつくものだから。まあポリーおばさんとか未ぼう人とか、それとメアリなんかはべつかもしれないけど。ポリーおばさん、つまりトムのポリーおばさん、あとメアリやダグラス未ぼう人のことも、みんなその本に書いてある。で、その本は、だいたいはホントのことが書いてあるんだ、さっき言ったとおり、ところどころこちょうもあるんだけど。
それで、その本はどんなふうにおわるかってゆうと、こうだ。トムとおれとで、盗ぞくたちが洞くつにかくしたカネを見つけて、おれたちはカネもちになった。それぞれ六千ドルずつ、ぜんぶ金(きん)かで。つみあげたらすごいながめだった。で、サッチャー判じがそいつをあずかって、利しがつくようにしてくれて、おれもトムも、一年じゅう毎日(まいんち)一ドルずつもらえることになった。そんな大金、どうしたらいいかわかんないよな。それで、ダグラス未ぼう人が、おれをむすことしてひきとって、きちんとしつけてやるとか言いだした。だけど、いつもいつも家のなかにいるってのは、しんどいのなんのって、なにしろ未ぼう人ときたら、なにをやるにも、すごくきちんとして上ひんなんだ。それでおれはもうガマンできなくなって、逃げだした。またまえのボロ着を着てサトウだるにもどって、のんびり気ままにくつろいでた。ところが、トム・ソーヤーがおれをさがしにきて、盗ぞく団をはじめるんだ、未ぼう人のところへかえってちゃんとくらしたらおまえも入れてやるぞって言われた。で、おれはかえったわけで。
—マーク・トウェイン著/柴田元幸訳『ハックルベリー・フィンの冒けん』pp10-11 導入部
さらにインタビューでもお伺いした「文法的に正しくない英語がいかに雄弁であるか」を論じ、この文学というものに独特の強みを与えている点を指摘されました。『ハック・フィン』以降のその例として、バーナード・マラマッドやJ. D. サリンジャーの作品の一節も紹介し、それをプロジェクターに映しながら、正しい文法で整形すると、テキストが持っている「切実さ」と「力」が消えてしまうことを説明。しかし「間違い」をそのまま翻訳で再現することは、「訳者が間違えている」とも思われてしまうため、極めて困難であり、その訳すことのできない「間違い」をどう伝えるか。その「間違い」を別の形で伝えることの必要性も説かれました。そして『ハック・フィン』にはこうした「間違い」があふれているものの、それを正しい英語と比較しながら、その「切実さとパワー」を新訳で伝えようとしたことを解説されました。
翻訳者としては「訳者の工夫が目立つとよくない」ことを認識しているが、「今回は目立ってしまうことはある程度仕方がない」ものとして覚悟していることも述べました。
その後は会場からの様々な質問に答え、アッという間に1時間半が終わりました。
イベントを終えて
いかがだったでしょうか。「文学的でないものが、本当は文学的」というアメリカ文学の態度が色濃くあらわれた作品『ハックルベリー・フィンの冒けん』。130年以上前に生み出されたこの作品が柴田さんの新たな訳出で蘇りました。ぜひ手にとって、新しい『ハック・フィン』の世界を体験してみてください。